旧ブログ記事

【再掲】 出生届に3時間…(2008.5.19)

あれよあれよという間に、貴重な育休もあと残りわずか。
このままではマズい…!
とりあえず、やるべきことをリストアップした上で、
文字通り1日1日を大切に過ごしています。

そんなある日、娘の出生届を提出するため彼女(妻)と
役所へ出向いた時のこと。

出生届に限らず、役所の書類というのはどうも
時代錯誤も甚だしいものが多く(元号とか)、
毎回書くのを躊躇してしまいます。

今回は「嫡出子」(正統な生まれの子)か「非嫡出子」
(そうでない子)
かを記入する欄に、チェックしないで
受理してほしい、と要望したら、なんと待ち時間を含め
3時間もかかってしまいました(汗)。
生後10日の娘も同伴だったため、3人ともぐったり。

結局「チェックしないで受理することは現行法上できない。
こちらで判断してチェックする(職権記載)しかない」
との返事だったので、念のため東京法務局に
照会してもらう手続きをとってきました。
不受理の場合、不服申し立てをして
裁判に持ち込む道もあるそうですが
さすがにそこまではやる気になれません。

幸い、住民票については別途
相談に応じるという答えをいただきました。

意識を変えるって大変なこと。
でも、地味~な抵抗って必要だと思いませんか?
少しでもそういう声が増えれば、と期待します。

あぁ、これで貴重な休日がまた1日…。

【再掲】 卒業生へ贈る言葉~憶えておきたい四つのこと

ちょうど6年生を担任していた年に長男が生まれ、それを機に教員を辞めた。最後に受け持った担任クラスの卒業生たちに贈った言葉。

 卒業生のみなさん、卒業おめでとう。私が小学校を卒業した時分は、一体何が「おめでたい」のかさっぱり分からなかったが、今ならその意味が分かるような気がする。六年間という長い年月、元気に学校に通えたということは、それだけで十分価値のある、何よりも「おめでたい」ことなのだ。

 そして特に、この学年の卒業は、私にとっても忘れられない、意味深いものになるだろう。五年間という短い教師生活の中で、最初で最後の卒業生になるからである。みんなと共に小学校を「卒業」するにあたり、私自身、日ごろ大事にしたいなぁと思っている四つのことについて書き記し、はなむけの言葉に代えたいと思う。

疑うこと 今はやりの○○詐欺や悪徳商法、新興宗教(占いや迷信なども含む)の類から身を守るための防衛策としてはもちろん、あらゆる場面において「なぜ?」「本当に?」と考えてみることは大切である。信じることを旨とするキリスト教においては多少違和感があるかもしれないが、本物の信仰も一度(場合によっては何度も)疑った上で初めて成り立つ。世間の「常識」や、本物「のような」感覚には懐疑的になる必要がある。特に最近は、強者への追従と迎合がまかり通るご時世だけに、「多数=正義」のような図式には大きな危惧を抱く。世の中には案外ニセモノも多い。それを見分けるには、常に自分の頭でものを考えること、「そんなもんだ」と思い込んで思考停止をしてしまわないことである。疑うことをやめてはならない。

省みること 何事もふり返ることなしに前進はあり得ない。その対極にあるのは、行き当たりばったりとやりっぱなし。省みるということは、過去にとらわれて後ろ向きに生きることではない。自分の行動に責任を持ち、失敗も成功も含めて、次に生かしていくという前向きな姿勢である。例えば暴力。殴られた側はいつまでも傷を抱えているのに、殴った側は忘れてしまうことの方が多い。戦争も同じである。加害者である方こそ、決して忘れてはならないのだ。己を省みることに加え、過去の経験から学ぶことも大切である。過去から学ぼうとしないと連鎖を生む。いじめ、虐待、後輩いびり…。歩んできた道をふり返り、歩むべき道を見すえることは、必ず未来にはばたくための向上心へとつながるはずだ。省みることを怠ってはならない。

謙ること 立派なことを言う人はいる。行いが正しい人もいる。しかしこのことは案外忘れられやすい。あらゆるモラルやマナーを越えて、キリスト教のアイデンティティとも言える部分ではないだろうか。それは、美徳として自己主張しないということではない。すべては、弱く罪深い至極小さな自分を認め、受け入れることから始まる。おごらず、高ぶらず、侮らず、欲張らず、謙虚に感謝しながら生きるという姿勢。自分は「偉い」と思った瞬間、己の成長は止まる。どこの大学を出たか、どこに就職したか、年収はいくらか、背は高いか、イケてるか、家は広いか、PSPは持っているか…。聖書(フィリピの信徒への手紙三章八節)に言わせれば、そんなものは「塵あくた」に等しい。神の前に人は皆、あまりにも小さい。謙ることを忘れてはならない。

想像すること 誰かを殺したり、遠い異国にミサイルを撃ったりできるのは、人の痛みに対する想像力に欠けるからに他ならない。もし自分が相手の立場だったら、もし自分がその場にいたら、自分の行動がこの先何をもたらすか、をイメージする力を養わなければならない。だから、本を読むことは大事なのだ。国語で勉強してきたことも、そのために必要な「道具」なのだ。そうした想像力をもてる人は、それを行動力につなげることができる。大げさを承知の上で言うならば、「想像力」が世界を救う。世界を滅ぼし得るのは、「想像すること」を放棄した「無関心」である。

 難しいことを偉そうにつらつらと書いてしまったが、思い返せば自分自身への戒めも多い。知らず知らずのうちに誰かを傷つけてしまうことがある。人を裁き、見下していることがある。毎日が反省の連続である。教師として、人として未熟な部分も多かったに違いない。

 卒業していくにあたり、愛校心とか「師への恩」など持たなくてもいい。時々これらのことを思い出してもらえたら幸いである。おめでとう。そして、ありがとう。みんなとの出会いは、かけがえのない出会いだった。

(2005 PTA通信特集号 第58巻より)

【再掲】 日本がもし40人のクラスだったら

 2002年、教員時代にPTA通信に寄稿した文章から再掲。男子校という環境下で「多様性」をどう教えられるか頭を悩ませていた。

 日本には約1億3000万人の人がいますが、もしもそれを40人のクラスに縮めるとどうなるでしょう。

 40人のうち20人が女性です。20人が男性です。6人が子どもで、34人が大人です。そのうち7人がお年寄りです。おとなりのカンコク組には、15人の人がいます。アメリカ組は85人です。そしてチュウゴク組は、なんと396人もの大人数クラスです。日本組のお年寄りは、今は7人ですが、15年後には10人、45年後には13人がお年寄りになってしまいます。

 34人の大人のうち21人がはたらけますが、1人は仕事がなく、失業中です。でも、日本組は他のクラスとくらべてもお金もちです。給食もたくさん食べるので、8人の大人は太りすぎです。子どもも、もちろんお金もちです。1年間にもらうおこづかいは1人7万7000円。ひと月に6000円以上もらっていることになります。が、まずしいエチオピア組では、大人が1年間はたらいても、1万2000円しかかせぐことができません。

 日本組の人たちは、赤ちゃんをのぞいて、全員が文字を読めます。でもアフガニスタン組は、かりに日本と同じ40人のクラスだとしても、25人の人は文字を読むことができません。

 日本組では、30人が仏教を信じています。でもほとんどの人が、クリスマスにはケーキを食べ、お守りをたくさん持って、正月には初もうでにも出かけます。

 純粋にキリスト教を信じている人は1人いるかいないかですが、カンコク組では、15人のクラスメートのうち4人がクリスチャンです。


 「学校は社会の縮図」だとよく言われます。けんかや話し合いなどを通じ、友達との人間関係をつくったり、お互いが共存するためのルールを決めたり、といった「社会性」を養わせるのが、今日の学校に課せられた大きな使命の一つです。

 他方、「学校の常識は社会の非常識」とも言われます。たしかに学校は、いわゆる企業の論理や企業社会の要求からは独立した場所にあり、教師の専門職性が充分に発揮されるべき特別な領域です。しかし学校が、一般社会や世間の時流からまったく隔離され、作られたもう一つの「社会」の中に、子ども達を囲い込んでいるとしたらどうでしょう。教師自身、常に立ち返ってみる必要があると思わされます。

 少なくともこのR小学校に通う子ども達は、日本に半分いるはずの「女の子」がいない環境で、かつ日本社会ではまだまだマイノリティであるキリスト教を教育理念とした学校に生活しながら、命を脅かされる危険もなく、充分生きていけるだけのお金と教育環境を授けられた、至極「恵まれた」子ども達です。その中で認識できる「社会」には、やはり一定の限界があると言わざるを得ません。

 では、奇しくもその「社会」に、ひと足早く足を踏み入れることとなった私たち「大人」にできること、教えられることは、いったい何なのでしょうか。私自身の貧しい経験から言えることは、自分にとっての「当たり前」が実は「当たり前」ではなかったということ、そして、自分はこんなにも狭い世界にいたのか、自分はこんなにも小さな存在だったのかということ。そうしたことに気づき、それを肌身で感じる経験が必要だということです。これは、福島の片田舎から「首都圏」に出てきた私自身の実感でもあります。そうした経験が、他者理解の第一歩であり、ひいては信仰の原点にもなると思うのです。

 自分のクラス(自国)だけでなく、隣のクラス(隣国)のこと、そして学校(地球)全体のことまで考えられるような、本当の意味で「広い視野でものを見」る、「グローバル」な感覚を身につけてこそ、「R学院に喜ばれる」子どもから、「神様に喜ばれる」子どもへと大きくはばたけるはずです。そうして初めて、R小学校が果たして本当に「世界一」かどうか、という問いの答えも出るのではないでしょうか。

《参考》
池田香代子再話 C・ダグラス・ラミス対訳『世界がもし100人の村だったら』マガジンハウス
吉田浩著『日本村の100人の仲間たち』日本文芸社

(2002年 PTA通信特集号 第55巻より)

【再掲】 教育実習見聞録~小学校編(4)

 4週にわたって連載した「見聞録」の最終回。実習中も欠かさず投稿しようという当初の目標がやっと達成された。先週のコンパでもあらかた報告しつくしてしまったが、今回は一ヵ月を通した実習の総括も兼ねて、4週目の報告をしたいと思う。

 実習を終えてみて第一の感想は、やっぱり協力校で良かったということ。附属小に行った実習生は皆、「附属は附属なりによかった」と口々に言っていたし、話を聞くかぎりではそれも確かなようだが、附属と一番違う点は、やはり実習生の数が少ないことである。多くても各学年に一人ずつぐらいの割合だから、実習生一人一人が大切にされる。また、クラスを越えて他の学級や他の学年とのつきあいもおのずと多くなるので、学校全体が見えるようになる。ぜひとも普通とは違った教育現場で貴重な経験をしてみたいという人以外には、協力校に行くことをおすすめしたい(協力校の中にもいろいろあるんだろーけど…)。

 僕の行った学校は、とかく環境に恵まれていた。環境教育の指定校ということもあり自然が豊富で、森のような中庭、アスレチックつきの校庭、小高い山、芋を育てる畑、もちろんウサギ小屋、にわとり小屋もある。子どもたちが外で遊ぶには何の不自由もないだろう。また校内には、TV収録用のスタジオつき放送室、簡単に映画も見れる大スクリーンつきの視聴覚室、数十台のパソコンで自由にゲームやドリルができるコンピュータ室といった視聴覚教育の環境も充実している。ただこれらについては、多忙なカリキュラムのなかではほとんど使いこなすことができずほこりをかぶっているものもあり、やや「宝の持ち腐れ」の感がある。そしてもう一つ印象的だったのは、障害児教育の先進性である。複式学級(特殊学級)のクラスが3つもあり、20人前後の子どもに対して4人に一人ぐらいの割合で先生がいる。僕のいた学校ではとても考えられない光景だった。先生も生き生きした若い人が多く、自由な教育活動が実践されていて、学校のなかでも際立つ新鮮さを放っていた。通常学級との交流も盛んで、他の子どもとも自然につきあえる雰囲気が確立されていたように思う。先生方の日々の努力の賜物だろう。

 学校の自由な雰囲気もあり、教師集団も実に個性派ぞろいで面白かった。「江戸っ子」を自称する世話好きな我が担任を筆頭に、関西弁バリバリの自由奔放なオッサンや、職員室と教室とではまるで別人格に豹変する演技派教師など。さすがにピンクいメッシュと金のサンダルにはビビった(はたから見たら絶対、近所のハデめなオバサンとしか思えない。しゃべり方もオバサン丸だしだった…)。

 子どもはというと、いつの時代も基本的に「子どもは子ども」である。ただ、僕の育った頃と違う点をあげるとすれば、家庭の事情が実に多様化しているので、それだけ子どもの育ち方も千差万別であるということ(これは田舎と都会の違いかもしれない)。自分の思い通りにならないとキレてしまう子、虐待を受け続けたために極度の大人不信に陥った子、両親の離婚のために愛情が不足し、家庭でのストレスを学校で晴らす子など、特別な配慮を必要とする子が少なからずいる。特にかなり年の離れた兄、姉をもつ子が多く、末っ子の弟、妹に対してはどうしても過保護になりがちな家庭が多いらしい。家庭環境が子どもに与える影響は絶大である。

 そして、何といっても驚いたのは、放課後の校舎や校庭に子どもたちがほとんど残らないことだった。小学校の頃などは、誰もいなくなった学校で、先生に見つからない場所にいつまでも友達と残り、くだらないことをウダウダしゃべったり、遊んだりすることが最大の楽しみだったはずだ。それが、帰りの会が終わった途端、くもの子を散らすようにサーッといなくなってしまう。いったいそんなに急いでどこへ行くといのだろう。最近は事故や事件が多発しているため、学校側でも残らず早く帰るように指導しているという。学校もずいぶん生きづらい場所になってしまったものだ。

 子どもについて気づいたことのもう一つは、6年生という学年は、精神的・肉体的発達段階や「学力」のギャップが極めて大きいということ。毎年少しずつ蓄積された格差が、高学年になって現われてくるのだろう。あらゆる場面で友達や先生に気配りが「できてしまう」学級委員タイプの子もいれば、かたやいつも先生にじゃれついてくるような2年生と同等の幼い子なんかもいて、とても同年代とは思えない子どもたちが一つのクラスに同席している。ここらへんが、高学年における学級経営や授業の進め方についての大きな課題かもしれない。

 さて、最も不安だった研究授業(「不思議な鳥の巣」を屋外に設置してみようという図工の授業。「第参週」参照)だが、前日まで降り続いた雨が、まるでウソのような晴天に恵まれ(日頃の行ないがいいらしい)、子どもたちも環境が変わったせいかこれまで以上に熱心に取り組んでくれた。ただ、問題の担任が、受験生をもつ親のごとく過剰に心配し、手とり足とり指導いただいたため、逆に調子が狂ってしまった。しかし当の子どもたちはそんな裏事情はおかまいなしで、試行錯誤しながら夢中に「遊んでいた」。でも、決して今回の授業のよしあしは僕の働きによるものではない。僕がやったことといえば、子ども一人一人に声をかけ、進み具合を見て助言をした程度だ。すべては新鮮な環境(場所、雰囲気、材料)のなすところである(案の定、担任は過大評価してくれたが…)。

 そんなざっくばらんな「自由放任」的オバサン担任のおかげで、独自に自主的な活動の成果をいくつか残してくることができた。

 一つ目は教室の大掃除。なんせ教室が汚かった。担任が教室を私物化し、子どもの荷物を押し退けて自分の私物をたんまりと持ち込んでいる。資料の山、紙くずの山、子どもたちの「本読みカード」の類が散乱し、かたづけ忘れた給食の食器まである。無論、教室の掲示物なんかもひどい有様。子どもにも、この点がかなり評判が悪い。他のクラスはみんな整然としていて気持ちがいい。そういうところも、クラス全体の落ちつきのなさの遠因になっているように思われた。学習環境のあたえる影響は想像以上に大きい。4週目、さすがに見るに見かねて思いっきり掃除をしてあげた。

 二つ目は、「オススメ」の紹介。3週目から、毎日の朝の会で「オススメコーナー」と称し、オススメの本や映画、マンガなどを紹介したいと担任に申し入れたところ、「是非やってくれ」ということになった。自分が小学生の頃に出会えたらよかったなと思うものを、2週間にわたっていろいろ紹介できた。なかなか6年生には難しいかと思うようなものもあったのだが、なかには「ハマッちゃった」と喜んでくれる子も何人かいて嬉しかった。さすがに「中島みゆき」の紹介だけは誰にもわかってもらえなかった(君たちもねぇ、大人になったら分かるんだよ。この良さが…)。

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 そして三つ目は、最後のお別れ会の日にプレゼントした児童全員の似顔絵。これはおおかた考えてはいたことだったのだが、子どもたちへのプレゼントは何がいいかと実習生で相談したところ、やっぱり一人一人へのメッセージは忘れられないということになり、メッセージ入りの似顔絵を39枚の色紙に書くことにした。子どもたちの顔を思い出しながら3日で描き上げた。最後の挨拶では、「一人一人違うメッセージを書きました。一人一人が大切にされるクラスづくりをしてください」と話してみんなに手渡した。子どもたちは今までにないほど大騒ぎした。

 この一ヵ月を通して、確かに言えることは、小学校においては「担任次第でクラスが決まる」ということ。そして、講話でもある先生が言っていたが、「学校の常識は世間の非常識」であるということである。時代がどんどん移り変わっていくなかで、学校という空間と世間とのギャップがますます開いているというのが現状である。いや、学校とは常にそういう存在でなければならないという面もあるのだが、これからの学校は、どこまでその流れと対抗しながら共同していけるのかが課題になるだろう。

 最後のお別れ会では、せっかく何人かの女の子が企画してくれたにもかかわらず、はしゃぎ出す男の子や、仲の悪いグループのせいで、予想どおりクラス全体がまとまらず、泣ける場面はなかった。でも、個別に「りっぱな先生になってください」とか「早く先生になって、○○中に来てください」といったメッセージ入りのプレゼントをたんまりもらうことができた(これがまた泣けるんだわ…)。んなこと言われちゃ就職活動してるわけにゃいかんでしょう。

 ってなことで、とりあえず残りわずかな日々を、来月の教採に注ぎ込むことをかたく決意したのであった。やっぱり教師しかないでしょう。…というのが、何だか妙に期待通りで、誰かにだまされているような気分を抱えながらも、「ランナー」片手にひた「走る」今日この頃である。

 現在、小学校で教鞭をとるS井氏は、「実習で見えるのは、教育現場のほんのわずかな部分にしかすぎない」と言っていた。確かにその通りである。それでも、得たものは書ききれないほどあった。この先、実際教師になるかどうかはまだ分からない。が、この4週間の経験のなかで、役に立たないものはかけらもなかったと思っている。

(1998.6.17「KNOSPEN」より)

【再掲】 教育実習見聞録~小学校編(3)

 3週目。授業をした。さすがに実習も楽しいことばかりじゃないことを痛感。一クラス40人前後の子どもを45分間、授業に集中させるということは、予想外に難しい。特に2年間も同じ担任となると、先生のやり方もほとんど見切られてしまい、そろそろ飽きが出始めてくる。その点、実習生なんて気楽なもんだ。4週間という期間限定で、わずかな間にちょっと力を入れておもしろい授業をするだけで、子どもには受ける(実際それも簡単じゃないんだけどね)。まさに、おいしいとこだけ持っていくという役回り。

 一方子どもたちはといえば、(我がクラスを見ているかぎりにおいては)はっきり言って学校の授業にはそもそも期待していない。6年生でも3分の1ぐらいが塾に通っているから、授業など聞かずに、教科書の先の先まで進んでいる子がいる。学校の先生よりも塾の先生の方が、細かく丁寧にいろんなことを教えてくれるという意識も大きい。そんなだから、なおさら授業に集中できない。ちなみに余談だが、道徳の授業で、「小学生に塾は必要か」というテーマのディベートを試みた時は、意見が真っ二つに分かれ、「必要派」と「不必要派」が五分五分のままに論争が終わった。

 そしていよいよ問題の、研究授業。中学の免許は国語なのだが、図工が面白そうだったので図工の授業を希望した。テーマは、「不思議な鳥の不思議な巣」。しかし、自分の体験上での図工をイメージしていただけに「新しい」図工とのあまりの違いの大きさに度胆を抜かされる結果となる。いや、前から「新学力観」では図工が一番変わったという話は聞いていたし、実習生の体験談でもそれに似たような話は聞いていた。が、実際に授業の準備を重ねていくにつれ、「こんなん図工じゃねぇぇぇっ!」という心の叫びがどんどん膨れ上がってくるのだった。

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 それぞれの「個性」によって作られた作品は、「すべて」いい。材料も何を使ってもいい。形だって何でもいい。どんな発想が出てきても、「すべて」いい。まさに何でもあり。いや、むしろ既成の概念にとらわれたものは「よくない」とされてしまう。僕の授業でも、当初はいろんな「巣箱」を作る予定だったのだが、箱にこだわらないようにと「巣」になり、今度は巣にこだわらないようにと、「住まい」とか「空間」に…。しまいには「感性を立体に」とか、「作業過程でのイメージの変化が重要」とか…。知るか、んなもん! 僕が小学生だったら、それこそプラモを作ったり、好きなマンガの模写をしたりする方がはるかに楽しいし、後々役に立つだろうし、技術や能力も身につくはずだ。ある程度自分の思い描いた通りに作品が仕上がって、その満足感とか、達成感が楽しいんじゃないか! さらに、「指導」するのはよくないので、「こうしたらいいんじゃないのぉ?」とか 「こうしたらいいかもよぉ」といった、さりげない「支援」が重要になるってんだから、余計に難しい。実際の授業(本時)は4週目なので、やってみなくちゃわからないのだが、はてさてどうなることやら…。

 さて、実習生の実状について少々ふれておこう。実際の実習内容は、自分の担当の先生によって天と地の差がある。うちの先生は以前にも書いたように、よく言えばざっくばらん、悪く言えばいい加減な先生なので、授業なんか指導案もなしで塾のバイトさながら自由にやらせてくれる(でも真面目にやってるよ)し、かえっていろんなことに自ら挑戦できて楽である。かたや毎日夕方遅くまで、今日の授業の反省と、明日の授業の指導案について、さらには研究授業の指導案について指導を受け、先生の思い通りの指導案ができるまで書き直しをさせられる実習生や、ここ2日で2時間も寝てないとつぶやきながら、真っ赤な目をこすりこすり持ち前の「要領の悪さ」で一生懸命に努力を続ける実習生もいる。そんなかたわらで子どもに頼まれた「絵」なんぞをのうのうと描いているわけにもいかず(こっそり描くようにしてる)、互いに同情しながら助言をして、励まし合っている。実習生同士が仲良くなるのは、かなり重要なポイントかもしれない。

 そんななかで一番楽しいのが、5・6年生が大会に向けて(朝と放課後)練習をする「陸上課外」。跳んだりはねたり、なまった体を思いっきり動かして、子どもと一緒にストレスを発散している(昔、保健体育で「昇華」って習ったけど、あれホントの話だね)。なんたって相手が小学生だから、運動不足のボンクラ学生でも、「運動神経抜群」のお兄さんでなんとか通用するんだ、これが…(中学ではそうはいかないだろーね)。

 さて次回は、涙、涙の(?)4週目。これまでの総決算ができるような、充実した一週間になることを願いつつ…。感動の最終回なるか?

(1998.6.10 「KNOSPEN」より)
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