いま一度、宗教者の姿勢を問う

いま一度、宗教者の姿勢を問う(最終回)

震災報道で特に神経を使ったのは、
事実を伝えることに徹するということ。

宗教メディアの立場としては、非常時に際して
いかに宗教が有用かを喧伝したくなる。

震災後に教会に通い始めた被災者が洗礼を受けた
瓦礫だらけの被災地にいち早く十字架が立った
教会が率先して地域のために仕えて喜ばれた。
津波で自宅も会堂も流されたが、信仰は流されなかった
避難生活をする中でますます信仰が強められた
復興の最前線に立って孤軍奮闘する牧師がいる。

信者が喜びそうなネタは無数にある。
しかし、それらを取り上げ持ち上げれば
持ち上げるほど、それに該当しない人々の
本音は押し込められ、発しにくくなり、
存在も覆い隠され、ひいてはなかったことになる。

まして「ボランティア」真っ盛りのころは、
現場にさまざまな課題疑惑があろうとも、
それを誰も指摘できないような「空気」があった。

善いことをしているのだから
足を引っ張るようなことをするな(言うな)」

とでも言わんばかりの圧力。

それは日々、牧師や教会、キリスト教系慈善団体の
不祥事をもつまびらかに報じている弊社に
時折向けられる批判と同質のもの。曰く……

「伝道の妨げになる」
「聖書的(福音的?)でない」


真理は時に人を傷つける。
誰も傷つけない(傷つけられない)ことを優先し、
厳然とある事実から目をそらすことが、
果たして宗教者のとるべき姿勢だろうか。

キリスト教や教会の功績のみ
あげつらうならば、それは単なるプロパガンダであり、
もはやジャーナリズムとは言えない。

自戒と反省を込めて宣言する。

「美談」はいらない。

最後に、連載中に応答していただいた敬愛する
ヤンキー牧師こと水谷潔さんのブログから引用して、
一応の「最終回」としたい。

極めて私的な自問自答に、最後まで
お付き合いいただき感謝いたします。

感動はするものでなく、強制するもの~感動がもたらすファシズム

 感動の強制、それへの画一的応答の要求、異質者の排除・・・・。

 キリスト者が群集のごとくが踊らされていてはならないでしょう。神と出会い神を知り、真の感動を体験しているキリスト者こそが、こうした感動の強制が持つ危険性と負の力を見抜き、日本社会にあって、賢い発信と着実な歩みをしたいと願うのです。

いま一度、宗教者の姿勢を問う(9)

これまでの連載で、宗教者による応答の姿勢を
問い続けてきた。無論それは、宗教界の動向を報じる
私たち宗教メディア自身にも突き付けられた問いである。

「Ministry」第11号において、文化人類学者の上田紀行さんと、
東八幡キリスト教会牧師の奥田知志さんを招き、
「3/11後の宗教界を斬る」という物騒なタイトルで
対談していただいたのも、それに応えようと試みた企画だった。

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すでに述べたとおり、個人的には世間が抱く
宗教全般に対する期待に応えることのみ
応答のあり方だとは決して思わない。

むしろ宗教の役割は、もっと違うところ
あるのではないかとすら思える。
以下、お二人の対談から引用すると……。

上田 僕が『慈悲の怒り』を緊急出版しなければいけないと思ったのも、あの「がんばろう」攻勢ですよ。何をがんばるんだ、がんばったらうまくいくのかと。ただ思考停止させる心地の良い言葉となって、結局不安に向き合わない。いま何が問題なのかということを隠蔽する言葉でしかない。

 そういう歪んだ絆のあり方が、原発を生み出したわけじゃないですか。この絆を失ったら生きていけないという恫喝のような絆。場合によっては、そういう絆から逃げなきゃいけないときもある。子どもたちは早く避難させなきゃいけないってときに、「福島でがんばろう」でしょ。学校の先生が、弁当を持参した子どもに「みんな同じ給食を食べるべきだ」とか言っちゃう。

 でも、そこで本当に絆の質を問わなければいけない宗教者が絆と聞くと、「とうとう心の時代が来た」とか言って喜んじゃうんですよ。

奥田 今回の震災ではかなり情報が抑えられて、健全な怒りも、健全な形での失望感さえない。へたすると不安さえも軽減されている。これは危ないと思いますね。

上田 ……僕が提唱した「癒し」というのは、病気にならないでニコニコしていましょうというんじゃなくて、まずは徹底的に病むところから始まる。病むというプロセス自身が癒しになる。結局、癒しが起動しないようにごまかしているので、みんな病まない。

奥田 まさに、病まないという病ですね。

上田 やはり宗教者の側からも、そういう誤解を解かなきゃいけないはずなんだけど、何となく現代社会における有用性とか、大学の先生みたいに「社会のお役に立ってますよ」ということを言わなきゃいけない。世間から「そんな無駄なことを」と言われるんじゃないかという恐れが強すぎて、実用的なことを言い過ぎてますよね。

 奥田さんの活動にしても、ハタからは、ホームレスの人がたくさん助けられて、とても実用的で、こういう宗教者が増えればいいのにと、非常に浅いレベルでは見られている。でも、それだけならなぜ宗教者がやっているのかが分からないわけで。

*太字は引用者


上田さんの言葉をお借りするなら、今日の宗教者の役割は
高揚した躁状態に近い震災後の日本に
「冷や水をぶっかける」ことだと思う。

それは世間的な評価とは相容れないかもしれない。
しかしそれでも、ブレずに問い続ける必要がある。

もう一度、自分の足下を見つめ直して、
これでいいのか? このままでいいのか?
いま、自分がすべきことは何だ?
いま、自分がしようとしていることの意味は?

そして、自分にとって、この社会にとって
震災とは何だったのか、と。

いま一度、宗教者の姿勢を問う(最終回)

いま一度、宗教者の姿勢を問う(8)

震災後から抱いてきた違和感については、
キリスト新聞(2011年11月26日)の「望楼」でも書いた。

前回紹介したパネルディスカッションでも、この点を深めたかったが、
残念ながら前提となる問題意識を共有できなかった。

かろうじて言及した発言を、「信徒の友」から引用すると…

「発信者がかなり限られてくるのは、キリスト教界の人材の少なさにある。それは我々が発掘できていないためでもあり、人材が育てられていないなどの問題もある」

「被災していないし、被災地にも行っていないから書けないという人たちがいたが、それはちがうだろうと思う。震災や原発に関して語るべきことはある。今はまだ語るべきではないとは私は思わない」


まずは、震災後のキリスト教言論異様な静けさについて 。
特に「原発」についての反応の鈍さ
「語るべき言葉が見つからない」というのが
率直なところだったと思う。私自身、似たような感覚を覚えた。

しかし、言葉の宗教を標榜する私たちが、
いま語らずしていつ語るというのか!?
たとえ雄弁でなくとも、饒舌でなくとも、
もがき苦しみながら言葉を紡ぎ続ける責任
キリスト教メディアを含め、すべての牧師神学者にある。

詳しくは、それがキリスト教のすべきことか?(最終回)

そして、もう一点。

「被災地に行っていない者は語る資格がない
とでも言わんばかりの「空気」。

時間も人員も限られた会社の現状から、
直接被災地へ行って取材するのは困難だった。
たまたま福島が地元だったことから、実家を頼りに
沿岸部まで足を運べたが、わずかの期間で見聞きできた
被災状況はたかが知れている。

しかし、だからと言って何も報じられないとは思わない。
むしろ、被災地とは一定の距離を保ち、
超教派の全国紙としての役割を固持しながら、
冷静な視点で発信することの方が重要に思えた。

当事者が必ずしも真実に近いとは限らない。
津波の規模や被害状況を知ったのは、 むしろ
停電でテレビが見られなかった現地よりも、
それ以外の地域の方が早かったという。

現地に立って初めて見えてくる景色は確かにある。
記者自らが肌で感じることの意義は大きい。ただ、
全体像を把握するためには、やはり物理的にも心理的にも
一歩下がった俯瞰的視野が必要になる。

「冷たい」と言われればそれまでだし、
現地での取材不足を正当化するつもりはない。
他のパネリストによれば、
「安全なところでぬくぬくと記事を書いて…」
「被災者の苦しみなどわかるはずがない」

といった意見も寄せられたという。

仰る通り。そうした批判は甘んじて受けるしかない。
しかし、それを覚悟してなお、私たちには伝えるべき言葉と、
それを伝えるべき使命があるはずだ。

以下、震災特集を組んだ「Ministry」第10号の編集後記を転載する。

 キリスト教メディアの震災報道に対し、「なぜあの牧師だけ」「なぜあの団体だけ」という訴えを方々で聞いた。教派、団体、個人による覇権争い、売名行為、義援金の用途に対する疑義、非常事態に乗じて活発に動き始めたカルト団体など、不穏な動きに関する情報も複数入っている。

 本誌で紹介できたのも、ごくわずかな地域、団体、教会の一側面でしかない。取材にあたり、被災地の牧師や信徒を「悲劇のヒーロー」に仕立て上げることだけはやめようと確認し合った。言うまでもないが、他にも数え切れない無名の学生、ボランティア、教派、教会、団体、牧師たちによる働きがあったに違いない。

 一方、さまざまな事情から直接被災地に行けない後ろめたさを口にする人も少なくなかった。しかし、ただ現地に足を運ぶことで、安易にそのわだかまりを解消してはならないのだと思う。「言葉にできない」何かを抱えながら、この震災とは何だったのかと問い続けることが、私たちキリスト者に課せられた、大きな大きな「宿題」なのだと思う。

いま一度、宗教者の姿勢を問う(9)

いま一度、宗教者の姿勢を問う(7)

昨年11月に行われた公開パネルディスカッションの模様が
「信徒の友」1月号(日本キリスト教団出版局)に掲載された。


4人のパネリストの論点がよくまとめられている。

そもそも、「震災とその後の対応を風化させてはいけない」
という『信徒の友』編集者の提案を受けて、
私も属するキリスト教出版販売協会出版部会の
主催で催すことになった企画である。

テーマは、「震災とキリスト教ジャーナリズム
~私たちが伝えたこと・伝えられなかったこと
」。

司会を務めた新教出版社の編集者は、
「媒体の枠を越えた横断的な議論相互批判
あっていいはず」「かつてのキリスト教メディアでは、
それが紙上でも盛んになされていた」と乗り気だった。

私もその点は大いに賛同した。
日ごろから他紙(誌)の動向には注意をしているし、
とりわけ震災後のキリスト教を含む宗教メディアについては、
いつも以上にアンテナを張るよう心がけてきた。
私自身、報道のあり方に迷い、模索していたから…。

この連載で散々書いてきたように、同業他社の出した
出版物に言いたいこともあったし、
ウチじゃとてもかなわないと賛辞を贈りたい
記事や企画もあった。

しかし、ふたを開けてみると、
発言したメディア側にも参加者の側にも、
そうした関心はほとんどないように見受けられた。
議論がいまいちかみ合わず、質疑も少ない。
まるで肩透かしをくらったような気分…。

これでは、議論以前の問題である。

しかし、そのこと自体は決して責められない。
私だってこの仕事に就くまでは、ほとんど
これらの媒体など見たことすらなかったのだから。

ただ、ひとつだけ言えることは、
やはりそうした状況こそが、現代日本の
キリスト教界の拭い切れない閉塞感
つながっているのだということ。

自分の教会のことで精一杯で、
隣の教会のこととか、他教派のこととか、
まして海外の教会でホットな論点とか、
広く世間一般の 社会情勢などについて知ろうとする
努力意欲もなければ、それは先が見えて当然である。

(後編に続く)

いま一度、宗教者の姿勢を問う(6)

この間、続けて自問してきたのは
震災をめぐる宗教界の「応答」のあり方である。

折も折、筑摩書房刊のPR誌・月刊「ちくま」(2012年2月号 No.491)に、
美術家の森村泰昌氏による「美術、応答せよ!」
と題する一文が掲載されていた。

それは、同じ美術家(福田美蘭)からの
表現者として震災に向き合うのは可能か」との問いに答えたもの。
以下、共感した部分を抜粋する。

 あの三月一一日以来、私のところには連日、東北へのエールを求めるメールやチャリティオークションへの参加など、様々なリクエストがありました。誰それが多額の義援金を寄付したというニュースも毎日のように流れました。私はすべてのエールメッセージにも、チャリティの展覧会にも、義援金寄付にも参加しませんでした。その理由はここでも様々ですが、「みんなと同じことはすべきではない」という芸術家の態度表明としての「ノン」だったということは多分にあります。……「芸術家は何事にも屈しない。震災にも負けない。非常時の文化活動は差し控えるべきという多数派の意見にも賛同しない」、そういう態度表明として、展覧会はやるべきではないかと。

 ……誰もがアッチを向いている時、芸術家はまったく別の方向に目を向けている。それがいいのか悪いのかはわかりません。良し悪しの問題ではなく、はからずも世間様とは違った立ち位置をとってしまう。このヘンテコリンな感受性のありかたこそが、芸術という領域の特質である。だとすれば、そういうヘンテコリンな感受性が希薄化することと、芸術の衰退とは同義であろう。メイクではなくシャベルを。ネイルエナメルではなく素手を。ドレスではなく作業着を。そのように世の中が命ずるなら、なおのこと、私はこのままメイクを続けるべきなのではないのか。

 ……重要なのは、日本国民全体が「がんばれニッポン」などという単純きわまりのないキャッチフレーズを謳い上げる時に、芸術家もそれにあわせて唱和するというような馬鹿なことはやめたほうがいいということです。だって、みんなで同じ絵を描くなんて、いっぱしの画家がやることではない。それぞれに違った絵を描くから絵はおもしろい。被災地に行くか行かないかではなく、今の世の中の趨勢はどういう方向に流れているかと注意深く観察し、ならば自分はいかなる選択をすべきかと想像をたくましくすることが重要である。百人の芸術家がいたら百種類の表現がある。これは健全です。みんな同じというのは不健全極まりない。「違いのわかる芸術家」。これが私の理想なのかもしれません。

*太字は引用者


以上の文章で、「芸術家」や「画家」は「宗教者」
「芸術」は「宗教」にも置き換えられるのではないか。

森村氏は、「『宮崎アニメを観ない』ことによって育つ感受性も
あるに違いない」
との理由で、「観れば感動してしまうのかもしれない」
と思いつつ、あえて「観ない」という選択を固持する。

みんなと同じアッチじゃなく、誰もが興味を示さないコッチを
向く姿勢にこそ、芸術家のあるべき姿を見る思いもする」
という。
果たして、氏のような生き方は、浮世離れした芸術家の単なる
ヘンクツアマノジャクとして切り捨てられるべきものだろうか。

私が抱いてきた違和感の一つは、
ボランティア至上主義とでも言うような震災後の「空気」である。
まるで、被災地に行かない人間は「人でなし」とでも
言わんばかりの、重く冷たい「空気」。

宗教者として震災に向き合う」方法は、決して一つではないはずだし、
「みんなと同じ」でもないはずだ。

そのことを踏まえた上でなお、声を大にして言いたい。

「宗教、応答せよ!」

いま一度、宗教者の姿勢を問う(7)
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