ぼくの愛した渡利

忘却と妄信に抗う

 福島県原町市(現南相馬市)で生まれ、小学5年までをいわき市で過ごし、父の転勤に伴う転居後、高校卒業まで福島市の渡利地区で少年時代を送った自分にとって、5年前の震災が何だったのか、いまだ整理できていない面がある。

 「被災地」として報じられる県内の地名はどれも聞き覚えのあるものばかりだが、しょせん車を持たない高校生の行動範囲は限られており、福島出身と自称するには、あまりに地元を知らなすぎると改めて思わされた。今回、案内役を担った父親世代にとっての「福島」ともだいぶ開きがある。

 今も両親が住む渡利の実家は、線量が高い。至極当然のことだが、放射性物質は同心円状に拡散するわけではない。天候、風向き、地形に多大な影響を受ける。便宜上、被災地に区切りが生じることは避けられないが、「危険」か「安全」かという単純な基準で線引きなどできるはずがない。

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 東京電力福島第一原発近くの「居住制限区域」や「避難指示解除準備区域」の中にも、渡利よりはるかに線量が低い場所がある。福島第一原発から北に7キロ、町民およそ2万人が避難生活を送る浪江町。今回のオプショナルツアーで訪れた請戸小学校のある請戸地区は毎時0・12マイクロシーベルトなのに対し、母校である渡利中学校は毎時0・22マイクロシーベルト(いずれも今年10月時点)と、およそ2倍の値。かたや津波の影響もあり壊滅的な被害を受けたが、渡利は地震そのものによる物的被害は少なく、今も多くの地元住民が生活し、「帰還困難区域」からの避難者も移り住んでいる。幼い子を持つ同級生らは、多くが地元を離れた。それでも、さまざまな理由で留まり続ける家庭もある。

 震災直後は多くの風評や誤情報も流れたが、現在は幸いにしてある程度詳細なデータを調べることができる。ちなみに宮城県仙台市中心部の線量は毎時0・04マイクロシーベルト、東京都新宿区は0・03マイクロシーベルト。これらの数値をどう判断するかは個々人にゆだねるしかないが、原発に対する各人の主義主張とは別に科学的見地と歴史的教訓、そしてキリスト者に限っては信仰的良心に頼る以外に方法はない。

 前出の請戸小学校は海岸からわずか300�b。津波で甚大な被害を受けながら、震災翌日に出された避難指示によって、今も無残な姿を残したままだ。床が陥没した体育館、津波の到着時刻を刻んだ時計、置き去りにされた靴、押し寄せた波の破壊力を物語る痕跡など。たった5年前まで子どもたちの歓声があふれていた場所とは思えない荒れように、言葉を失う。

 当時、教員らの適切な判断と子どもたちの誘導で全員無事に避難した学校として、その教訓が絵本「請戸小学校物語」として発行されている。捜索活動で訪れた消防隊員らのメッセージが残る黒板は、保存用に搬出されて今はない。生々しい爪痕が残る校舎は、震災遺構として保存するかどうか検討中だという。

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 震災の記憶をめぐって印象的な場所が、もう一箇所あった。「原子力明るい未来のエネルギー」との標語が掲げられた双葉町の看板跡地。震災後の実情を見るにつけ、あまりにかけ離れたキャッチフレーズとのギャップに愕然とする。

 標語を考えたのは、福島第一原発7・8号機の増設が議論されていた1988年当時、小学6年生だった双葉町の大沼勇治さん(40)。学校の宿題で考えた標語が表彰され、原発推進のシンボルとして商店街の入口に掲げられた。

 事故後、出産をひかえていた妻と県外に避難したが、「自分で考えた標語は自分にしか直せない」と、「脱原発」を訴え始め、看板を残すための署名も7千人近く集めた。しかし昨年12月、双葉町は「老朽化して危険」との理由で撤去した。

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 大沼さんは自身のブログでこう記す。

 「原発PR看板の撤去する行為は、原発事故前、双葉町で信じさせられた原子力の安全神話が間違いだった象徴と、原発事故前の過去(原発推進)の町の歩み、そこで生きて来た人達の人生をすべて無かった事にしろと言う事に等しいと感じた。私にスローガンを考えさせた当時の大人たちは、全員ではないが、そのほとんどが見て見ぬふりだった。都合の悪い物は消すのがこの国の考え方なのだと自身が保存を呼びかける活動の中で体感した」(原文ママ)

 この国では、「負の記憶」を忘れようとする力が意識下に働く。過去を省みることを「後ろ向き」と忌避し、ポジティブな未来志向を手放しで良しとする。しかし、忘却の彼方にあるのは決して「明るい未来」などではなく、過ちを繰り返す愚かな末路だけ。有形無形にかかわらず、いかに記憶を継承できるかが問われている。

 あれから5年。首都圏では震災に関する報道がめっきり減ったが、被災者の避難生活は今も続いており、原発の廃炉も除染土壌の最終処分も具体的な目途はついておらず、原発の汚染水は「コントロール」などされていない。被害額の多寡、賠償金の有無、避難者と地元住民の間など、目に見えない溝も無数に生じている。「中間貯蔵施設という名の最終処分場」建設と、「帰還という名の復興」のみ急かされるが、優先されるべきものは何なのか。

 信じるべきは恣意的に作られた「安全神話」でも、無責任に流布される風評でもない。被造物である人間の傲慢さを戒める創造主の御心が、この地に行われるように、そしてそれを実現するため、小さな器に課せられた重荷を負うことができるようにと祈るばかりである。

(2016年10月8日 日本キリスト教会 四中会青年フィールドワーク報告)

ぼくの愛した渡利(最終回)

「愛した」という表題を付けることには
いささか躊躇があった。

何しろ、小学校を卒業してからは
「丸刈り」をめぐる教師との対決に精魂を使い果たしたので、
渡利中学校にはあまり良い思い出がない
原点としての「丸刈り」闘争を参照)。

以来、「愛校心」とか「郷土愛」といったものには
懐疑心だけでなく嫌悪感すら抱いていた。

高校時代も男子校でかつ帰宅部という
まるで刺激のない平凡過ぎる毎日を送っていたので、
正直「愛していた」とは言いがたい。

それでも、TRPG仲間と同人誌を作ったり、
泊りがけで「コンベンション」もどきを開催したり、
「イケてないグループ」に属していたので
永遠の片想いと思っていた憧れの女子
奇跡的にお付き合いしたりと、
それなりに充実はしていたのだが…。

ともかく、当時は一日も早くここを離れたかった。
口うるさいのもとから、
常に比べられる双子の兄と同じ学校から、
鬱屈した渡利から、時代遅れの福島から、
そして田舎クサい東北から、脱出したい!!
というのが、高校卒業時の最大の願いであった。

だから、偏差値とか希望の学部とかよりもまず、
関東以南の大学を選んで受験した。
同じ学部なら福島にもあったはずなのに…。

その意味で、ぼくは一度、
渡利を、福島を、東北を捨ててきた

念願がかない、自分のことを知る人が
誰もいない土地に引っ越し、文字通り
新しい生活をスタートさせることができた。
ようやく、あらゆる呪縛から解放されたのだ。

しかし、後に東京で知り合い、
結婚することになった彼女は福島出身で、
奇遇にも互いの実家は車で10分という近さ。

帰省の際には必ず両方の実家に
立ち寄るというのが、お決まりのパターンになった。
「子育てするなら田舎がいいという
共通の願いもあり、仕事さえあれば、
何かと子どもの面倒を見てくれる親の
近くがいい…とすら話し合っていた。

その矢先の事故。

もしかしたら、ここで仕事を見つけ、
土地を買い、家を建て、老後の親の面倒も見ながら、
家族で永住するかもしれなかった場所。

もしかしたら、幼い子どもを抱えて、
「避難」「除染」かという選択を
迫られていたかもしれなかった場所。

連載を書くにあたり、悔しいことに
「愛した」という以外、他に思い当たる言葉が見つからなかった。

それは、後ろめたさから来るものではない。
陳腐な同情とか誇りといった類のものでもない。
あえて言うなら、自分自身

大学で離れ、祖父母の死でより足が遠のいたものの、
結婚してからは家族で帰る場所となり、さらに
こうした事態になってなお、切っても切れない
自分とこの土地=空間との関係性。

渡利には、幼い日の自分がいつまでも生き続けている。

今もその只中にある家族、友人、知人、
特に子どもをもつ同級生たち。
たとえ離れていても、その思いに、
いつも寄り添える存在でありたいと心から願う。



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五月雨の降る福島市街

ぼくの愛した渡利(9)

保育園を通じて購読している保育雑誌に、
福島市さくら保育園園長である齋藤美智子さんの寄稿があった。

「ちいさいなかま」(2011年12月号/No.567)

さくら保育園は、自宅から徒歩1分の距離にあり、
(5)で紹介した愛犬チロの散歩では、
毎日のように通っていたなじみの場所でもある。

毎春、全国からバスを連ねて観光客が訪れていた
「花見山」のふもとにあり、震災前は
園児たちの絶好の遊び場になっていたはずだ。

 幼児は、短い時間外で遊ぼうと出てみましたが、砂に触れるな、草木に触るなと、とても安心して出られる状況ではありませんでした。転んだユーくんが手についた砂をあわてて落としながら、手のひらを心配そうに見ていました。もう安心して転ぶことができないんだな、と思いました。子どもは転びながら大きくなるというのに…。

 外に泳ぐこいのぼりを「いいな」と窓からうらやましそうに見ている子どもたち、「おやまがほうしゃのうにやられて、いけなくなった」と泣いている子どもたち。

 ……放射能を避け、子どもを育てるために、どうしたらいいのか。「ここにいることは、子どもを大事にしていないことなの?」と懇談会でミーくんのお母さんが涙ぐんでいました。避難しているお母さんからは、園に子育ての悩みの電話が来ます。生活を守りながら子育てをしていくためにどうしたらいいのか、みんなが真剣に考えています


線量計が市から園に貸与されたのは5月末
保育連絡会が中心となって市民講座を開催し、
少しでも線量を減らそうとロッカーの位置を変え、
「おやじの会」のお父さんたちと職員で園周りの除染もした。
保護者の協力で軒先にペットボトルを敷き詰めた様子は、
フォトジャーナリスト・森住卓さんのブログでも紹介されている。

努力の甲斐あって線量は下がったものの、
不安に翻弄される日々は続く。しかし……

渡利には今も、懸命に子育てを続ける大人たちがいる。

(10・最終回)へ続く

ぼくの愛した渡利(8)

昨年9月に出版された一冊の本。

福島県九条の会『福島は訴える』(かもがわ出版・2011/11)

帯封には、「いま、福島の人びとが、原発を、放射能を、
自分の声で語りはじめた。」
とある。

教育、医療、農業、漁業に携わる計27人の「訴え」のうち、
3人が渡利の当事者によるもの。

まずはその中から、3児(15歳、11歳、3歳)の母である
佐藤晃子さんの訴えを一部紹介したい。

「疎開したら」と言われるけど
 このような状況下で生活し続けることについて、「子育てをする大人としての責任放棄じゃないか」「子どもを疎開させたら」と、複数の友人からメールやら電話やらが来た。マスコミやインターネットの情報も、福島市で子育てする親を追い詰める内容が多かったように思う。転校していく子どもたちが増え、夏休み中に子どもたちを線量の低いところで生活させるための企画の情報も学校などを通じてどんどん知らされた。そのような中で、私の職場である県労連(福島県労働組合総連合)には、「子どもと県外に行くために、少し長めの休暇を願い出たら『辞めろ』とわれた」という相談が寄せられた。また、ある小学校では、「ほかの子どもたちが動揺するので、転校する場合には『あいさつなし』で転校してください」という話をされたという。福島市で子育てすることは「児童虐待」だという者までいた。

 ……原発事故は大小さまざまな「分断」を引き起こした。有無を言わせず避難を余儀なくされた原発周辺の人々はもちろん、それ以外の地域では避難に対する考え方やどの情報を基本に考えるかで地域や学校PTAの中での分断が起きた。家庭菜園の野菜を子どもに食べさせるかどうかで母親と祖母の関係が悪くなったり、夫婦間でも意見が分かれケンカが増えたという人もいる。仕事がある父親だけを福島に残し、母子だけが避難している家庭も相当な数にのぼる。大切な友達とサヨナラも言えずに別れた子どもたちもたくさんいる。あらためて思う。この福島に、日本に、原発はいらない。

「究極の選択」ではない選択をしたい
 今、福島市で子育てする人々には「究極の選択」が突きつけられている。「将来の健康不安を抱えながら福島市で暮らす」のか、「生活の見通しはつかないけど、福島市を出る」のか。でも、私たちは、それ以外の選択をしたい。「避難生活」も「福島市に住み続けること」も、どちらも安心・安全の中で自由に選択できる世の中にしたい。


内部被爆の不安と日々向き合いながら生活するストレス
それに追い打ちをかけるように、マスコミを含む当事者から
「避難」を迫られるプレッシャー。 
同じ子をもつ親として、同じ渡利に実家をもつ者として、
「避難」させたくても様々な事情で「避難」させられない親たちの
苦悩の深さは察するに余りある。

(3)で紹介した「きりん教室」で指導員をする佐藤秀樹さんは、
渡利の現状が「子育てには相応しくない」と認めた上でこう指摘する。

 しかし、子どもの健全な成長を願うのであれば、放射能への対応だけでなく、はっきり言えば、避難した先に、子育てをし、生活できる給料のもらえる仕事があるのかということ、渡利に住み続けている場合でも、子どもたちがその年代で味わうはずの経験をどう積んであげられるかということや、知識、体力などの点からも屋外での経験と遊びを放射能の問題とどうバランスをとっていくのかということを考えなければいけないと思っています。子どもたちが独自に持つ社会(友人関係など)も壊し、新たに作ることのストレスをどう考えるのかということも(一定の年齢に達している場合)、子どもが判断する必要があるのではないかとも考えます。仕事柄いえることは、家族は出来るだけ一緒に生活するようにした方がよいということです。

 少なくとも、渡利で生活していこうと考えるならば、どうやって子どもたちを放射線から守り、安心した生活を送れるかと努力をすることが必要です。同時に放射線と子どもの健やかな成長を育むことを日々、天秤にかけながら生活することが大事だと思っています。

*太字は引用者


渡利には今も、人々の生活がある。

同じ本の中で、「県民全員避難」の主張には
「生活者の視点が欠けている」と批判した
医療従事者の「訴え」にも耳を傾けたい。

 私たちはこれまでどおりこの地で生活し、この地で生産し、この地で消費していかなければならないのです。何の生産もしない200万の県民を30年間養い続けるだけの覚悟がなければ、全員避難などと言わないことです。

(9)へ続く

ぼくの愛した渡利(7)

昨夏、父の車で沿岸部の被災地を巡った。
兄一家が夏休みのたびに訪れたという
海水浴場も、必ず立ち寄ったというスーパー
見る影もなく朽ち果てていた。
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父は南相馬市、いわき市、福島市で高校の教員をしてきた。
震災後、原発20~30キロ圏から避難してきた多くの元同僚や教え子たちが、
渡利の自宅にも代わる代わる訪れた。

しかし、すでに「避難勧告」が出された浜通りよりも
60キロ離れた渡利の方が、はるかに高い線量を記録していた。
そうとは知らず、大人も子どもも水やガソリンを求めて長蛇の列を作った。

年の初めにあたり、父は年賀状に代わって
こんな挨拶文を友人らに送った。

 二ヵ月ほど前になりますが、私が親しく利用していた近所の八百屋さんが店を閉めてしまいました。聞けば、夏場の稼ぎ頭であった贈答用「桃」の販売が振るわず、例年の5分の1にまで落ち込んでしまった。これから先、こんな状態が一体何年続くのか。商売を続ければ続けるほど赤字がかさんでくるので、この際思い切って閉めることにした。「ようやくここまで積み上げてきたのに。放射能には勝てませんからね。それにしても悔しいです」と言葉を詰まらせていました。

 (中略) 私にとって2011年をあらわす漢字一字は、「悔」が最もふさわしいものでした。原発事故のすさまじさを体感する中で、文字通り「悔しい」思いと、もっと何かできたのではとの「悔い」、さらには真に依って立つべきところはどこなのか、キリスト者としての「悔い改め」を深く覚えさせられました。


さらには、かつての同僚と共に立ちあげた
「福島県立学校退職教職員九条の会」名義で、
「フクシマからのアピール」を発表した。

そこにも、福島第二原発の建設をめぐり
1973年に開かれた全国初の公聴会において
すでに「やらせ」が行われており、
「原発の危険性を明らかにする」はずが、
「原発推進の場」に変えられてしまったという経緯。

404人にも上る原告団(父を含む教職員も多数参加)が組織され
「原子炉設置許可処分取り消し」を求めた裁判で、
今日のような事態を警告したにもかかわらず、
17年9ヵ月に及ぶ裁判の末、「絶対安全」という国(東電)の主張が
認められ、10基もの原発が建ち並ぶに至ったこと。

同時に、子どもたちが「原子力、明るい未来のエネルギー」などの
標語をつくらされている現実があるというのに、これに対抗して
「原発の危険性を見抜く力をはぐくむ教育」を、十分には
なし得なかった結果、積極的に支持することはなかったにしろ
「原発のある社会」を容認してきてしまったこと。

それらのことへの「深い悔いと責め」が綴られている。

 福島の地で、「子どもたち=未来」と向き合う仕事に生きてきた私たちは、この点において、どんなに悔やんでも悔やみきれません。さらには、「憲法九条を守り、教え子を再び戦場に送らない」を共通の願いとしながら、「原子力の平和利用」という言葉に幻惑され、「核兵器の潜在的能力の保持のためにも、原発の維持は必要だ」とする本音を、十分に見抜いてこなかったことも悔やまれます。

渡利には、一教師の深い悔いがあった。

しかしこの地には、単なる「悔い」に留まらない
怒り、いら立ち、憤り、嘆き、呻き、諦め、覚悟など、
複雑な感情の渦がわき起こっていた。

(8)へ続く
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