怒りを忘れたキリスト者

怒りを忘れたキリスト者(4)

最後は、締めくくりにふさわしい新刊を1冊ご紹介。


上田紀行『慈悲の怒り』
(朝日新聞出版・2011/6)


まさに、震災後の「怒り」をテーマとしたこの本は、
あの『がんばれ仏教!』(NHK出版)を著した文化人類学者の
上田紀行さんによる緊急出版

「震災後を生きる心のマネジメント」
副題にあるように、宗教者に限らず、
今回の震災で得体の知れない「モヤモヤ感」
抱えている人にとっては必読の書となりそう

…といっても、決して怪しげなスピリチュアル関連本でもなければ、
お手軽な心理学や自己啓発の類でもない。

著者のメッセージはいたってシンプルである。

天災人災を明確に分け、天災による被災地の救援は徹底しつつ、
人災をもたらした構造はよく認識し、変えていくべき」


その「変えるべき構造」というのが、第二次世界大戦における
敗因にも通じる責任者の精神構造。つまり……

既成事実への屈服と、権限(役割)への逃避。そして、この時期に関わってしまった『私』は、状況の『被害者』なのだと言わんばかりの精神構造」

である。そして、次々と襲いかかる不安とのつき合い方
については次のように提言する。

 社会状況の中に重大な隠蔽があったり、社会全体の舵取りがおかしいといった、不安を生じさせるのが当然な重大な事態の時は、きちんと不安になったほうがいい。しかしパニックに陥ることなく、その不安が何によるものなのか見極め、単に自分の不安感の解消を目的にするのではなく、もっと大きな「不安の原因」を解消するように合理的な行動を取るべきなのです。操作された情報を鵜呑みにして不安を解消しようとしたり、「がんばろう」といった判断停止の言葉に逃げ込んで不安を忘れたりといった逃避行動ではなく、冷静かつまっとうな行動が要求されているのです。

 不安は無くすべきものではなく、活かすべきものなのです。


さらに著者は、ダライ・ラマ14世との対談において、
怒りには慈悲の心から生じるものと、悪意から生じものの
2種類あることを気付かされる。
ダライ・ラマによれば、前者は有益で「持つべき怒り」だという。

 私たちは宗教というと、非論理的で、感情をかき立て、私たちの合理的判断を誤らせるものだと考えがちです。しかし仏教の「縁起」の考え方は、きわめて論理的で、そして人間に苦しみをもたらす世界の歪みに対して立ち向かっていく、力強い合理性を持っています。「怒り」が忍耐をもたらす……、それは最初は非常に意外に聞こえます。しかし、人にぶつけてしまうような「小さな怒り」しか持てないから、怒りは暴力の連鎖を生んでしまう。

 ……私たちが考えるべきは、この社会をいかに人間の善きところを引き出せるようなシステムにしていくかということです。そしてもし現実の世界が人間の悪の部分を引き出してくるようなシステムであれば、「大きな怒り」を持って、そのシステムを変えていくことなのです。

*太字は引用者


読後感は、まさしくスッキリ
しかし、同時に忸怩たる思いにも駆られた。
それはこの間、一般誌によるキリスト教特集が
注目を浴びた折にも感じた感覚と同じもの。

「これは本来、私たちがやるべき仕事だろう」と。

いや、私たちにできないことを
代わりに担ってくださる方が教会にいたと、
むしろ感謝すべきかもしれない。

残念ながら現代日本のキリスト教界は
この著作に匹敵するような
知性も良心も、言葉も人材もまだ持ち合わせていない。
それを発掘し、育て、読者と共有するのが、
私たちに課せられた大きな責務である。

ちなみに、「小島慶子キラ☆キラ」という
ラジオ番組のゲストとして招かれた著者が、
この本の概要を分かりやすく語っている。
興味のある方は上記をクリック

最後に、著書の中でも紹介されていた
上田さんによる東京新聞への寄稿から。
キリスト教の「すべきこと」も、ここにこそある。

 寺や教会の大切さをいまいちど認識したい。それは非常時には支援の網の目となり、またふだんからそこに集う仲間たちの存在が苦しみに直面した中で大きな力となる。そしてもちろん、すべてが失われ、極限の苦悩に瀕しても、神や仏とともに生き抜いていける信仰の力は大きなセーフティーネットとなる。目に見える救い、助け合う人の絆、目には見えないが信ずることの中にある救い、それらが多重に張りめぐらされた信頼社会の中に「救いの力」はある。(2011年4月23日 東京新聞「『救いの力』の復活を・下」)


怒りを忘れたキリスト者

怒りを忘れたキリスト者(3)

今回は、地元住民による「怒り」
参考までに紹介したい。

マスコミでも報じられるようになった
幼い子を持つ親たちの不安と怒り
察するに余りあるが、以下の文章は、
かつて福島県の浜通りで教員をしていたという
福島市内在住の一信徒による
原発をめぐる怒りの告発である。

思い出すだに腹が立つ

 忘れられない光景があります。実は私は、福島原発1号機が運転開始(1971.3.26)して間もない1974年から81年の7年間、原発から北へ20数キロ地点にある福島県立原町高校に勤務しておりました。赴任した時には既に、国に対する「原子力発電所設置許可取り消し」訴訟が提起されていました。いわき市を中心に百数十人に及ぶ原告団には、教職員組合の仲間も大勢おりました。私もその隅っこで運動につながっていました。

(中略)

 さて福島地方裁判所での判決言い渡しの日です。仲間の車に乗せられて早朝から地裁の前に集まりました。テレビ局や新聞社の取材でごった返すなか、集会を開きながら緊張して判決を待ちました。10時開廷だったと思いますが、開廷したかと思ったら間もなくです。中から「不当判決」の垂れ幕を下げた人が走り出てきました。「門前払い」だというのです。安全基準に問題はなく、その基準にもとづいて許可をした国に手続き上、誤りはない、原発事故その他によって現実的に損害を被ってもいないあなた達には、そもそも訴訟を起こす権利はない、というものでした。

 あれから30余年、現実的に損害を被ってしまった今になって初めて、「あなた方にもようやく裁判を起こす権利が出来ました」とでも言うのでしょうか? 何を言っているんだ、という怒りの思いとともにあの裁判所前の光景が浮かんできています。

 それにしても霞ヶ関の政治屋さんたちの政争は論外ですが、遠藤勝也富岡町長をはじめ、井戸川克隆双葉町長など原発周辺の8町村の首長たち、それに佐藤雄平福島県知事、あなた達の言動は考えれば考えるほど腹が立ってきます。何を今更「国と東電にだまされた」「だまされた」と被害者ぶっているのですか。だまされた人は免罪なのですか。「だまされた」などと言う前に、「私も国と東電と一緒になって、みなさんをだまし続けてきました」と自らの不明を詫び、謝罪するのが人としての筋ではないか。

 原発を誘致し、増設運動を旗印に選挙の度に当選してきたのは一体誰。「原発と共存して豊かなる街づくり」を標榜していたのは誰。プルサーマル計画を無期延期していた佐藤栄佐久前知事の失脚(『知事抹殺』?)を受け、原発推進を自らの哲学的信条としていた民主党最高顧問渡部恒三の鞄持ちから知事となり、昨年10月26日に三号機でプルサーマル営業運転を認めてから、わずか5ヶ月、今日の事態を一層大きなものにしてしまったのは佐藤雄平知事、あなたではありませんか。

 それを、謝罪に来た東電の清水正孝社長の前に、地元の高校に戻りたいと訴える高校生の新聞記事を示して、「あなたがたには、この高校生たちの気持ちが分かるのですか!」などと涙ぐんで見せる。茶番ではありませんか。「こんな気持ちにさせてしまった、私の不明をいくらお詫びしても、詫びきれないのです。高校生のみなさん、誠に申し訳ありませんでした」と謝罪するのが先決だと思うのですが。

(日本キリスト教会東京中会
 震災対策事務局「震災対策News」No.6より抜粋)



怒りを忘れたキリスト者(4)

怒りを忘れたキリスト者(2)

キリスト教各誌において、「思索するための手がかり」が少なかったと
先の連載で触れたが、その中でひと際印象に残った論考が
5月号『福音と世界』に掲載された川端純四郎
(元東北学院大学助教授)の「『三・一一』以後――東日本大震災十日目の報告」だった。

 第四は、キリスト者としての私にとって非常に重大な問題です。それは、このような日本史上空前の大災害に直面して「神のみ旨」を問うことの意味です。

 ノアの洪水のように、この災害を人類の悪に対する神の審判と受け止めるべきなのでしょうか、あるいはヨブ記第一章のように「神与え、神取り給う、神のみ名はほむべきかな」というべきなのでしょうか。

 それともヨブ記第四二章のように不可解な神の巨大なみわざの前に沈黙すべきなのでしょうか。あるいは獄中のボンヘッファーのように、すべてのことを説明する「神という作業仮説」(説明原理としての神)を放棄すべきなのでしょうか。

 私自身の身に起こる不幸についてならヨブのような信仰はあり得るかも知れません。しかし、あの一面の広漠たる津波災害の跡地にたって、愛する家族を失った被災者の人たちに向かって「神のみ旨」を説くことは、私にはできません

 私にはボンヘッファーの道しかないように思われてならないのです。それでは、「神という作業仮説」を捨てた世界での信仰とは何なのでしょうか。それが、今、私が自分に問うている問題です。

*太字は引用者。数カ所、改行して転載


一信徒として、当事者として、被災直後の
率直な「迷い」が表現されている点が胸に響いた。

ここで「ボンヘッファーの道」と言われているのは、
ヒトラー暗殺計画に加わって処刑されたドイツの神学者
ディートリッヒ・ボンヘッファーの『獄中書簡』による
「神の前で、神と共に、神なしに生きる」
という姿勢を指す。

さらにこの後、弊社も属する業界団体
「キリスト教出版販売協会」の例会で
同氏を招き話をうかがう機会があった(6月24日)。

川端氏はその席上、教会員を探して600人余の遺体を
見て回ったという体験から、上記のような思いに至った
経緯を紹介した上で、こう述べた。

「神に見捨てられた命をイエスは生きた。神に見捨てられて生きることの中にこそ、神から与えられた道がある」

「なぜ地震が起きたのか、なぜ罪のない多くの人々が死なねばならなかったのか。説明はつかないが、そこで共に『おろおろ歩く』(宮沢賢治)イエスがおられる限り、私たちも共に生きるほかない」

「『摂理』や『みわざ』と都合よく説明できてしまうような神は、『答えがほしい』という人間が納得するために作り上げた『願望の産物』でしかない」


さらに、これまで出会った何百人かの学生ボランティアは、
ほとんどがキリスト教系の大学に通う学生だったが、
「選挙には必ず行く」と言ったのはわずか十数人しか
いなかったことを指摘した。

「政治に無関心なこの人たちが、石原知事や橋下知事を当選させている」

「人を苦しめているものと闘わなければ、苦しむ人と共に苦しむということにはならない。ボランティアは本当に涙が出るぐらいありがたいが、ただ同情するだけで問題は解決しない。現地で共に苦しんでくださるなら、苦しめているものへの怒りが伴わなければ……」


数々の報告記事を読みながら
「何か足りない」と思っていたのは、
まさにこの視点だった。

直後の急を要する支援に加えて、
長期的な視野として欠かせないもの。

それが、目の前の事象を表面的に捉えるのではなく、
構造的問題を見きわめ、具体的な解決の方法を探り、
そのために可能な限りの努力を惜しまないこと。

それこそが、「神への応答」として
私たち信仰者の「すべきこと」ではないだろうか。
選挙も、そのための手段に過ぎないが、
現状ではよりふさわしい為政者を選ぶことも
大事な支援の一つに違いないのだ。

怒りを忘れたキリスト者(3)

怒りを忘れたキリスト者(1)

自己批判に終始し、「すべきこと」の模索には
踏み込めていなかったので、今度はこれまでに
共感を覚えた言動について紹介したい。

キーワードは「怒り」

6/7付「中外日報」の社説は
「恐れと怒りからは何も生まれ出ない」と題して、
次のように主張した。

 インド独立指導者・ガンジーに倣って綿を栽培し、糸を紡いで自給自足経済の尊さを説き続けている片山佳代子さんは、……「震災について恐れたり怒ったりするよりも、建設的なことがあるはず。過ちを繰り返さず、本物の豊かさを手に入れる道を探りたい=要旨」と、知人宛ての転居の便りに記している。

 (中略)原発からの送電量が増大したことにより、文化的な生活を享受してきた多くの市民にも反省すべき点があることは、片山さんの転居通知が示唆している。ヨハネ福音書の「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」の一節を想起させる。恐れや怒りを超えた視点を確立したい。


これには半ば同意する。
私も5/18のつぶやきで、
宗教者の立ち位置についてこう言及した。

「『信仰』を隠れ蓑に思考停止をしてはいけない。
事実を事実として直視し、『安全だ』『危険だ』と煽る
情報の洪水にうろたえることなく、冷静に
いま自らが為すべきことを見極め、考え、祈り、行動すべし

その根底には、世間の価値観を超えた
宗教者(キリスト者)ならではの視点があるはずだ
という思いがある。
ただ一方で、片山さんが言う「過ちを繰り返さない」ためには、
正しく恐れ、正しく怒る必要もあるのではないかと思う。

「罪を犯したことのない者が、……石を投げなさい」
という聖句の引用が、本来必要な責任の追及
構造悪に対する批判までをも「自粛」させてしまわないか、
との危惧も抱く。

かつて某教団に属していた元牧師による
性暴力事件を、「被害者」の母からの証言で
報じたことがある。

教会の“暴力”――聖職者による「性暴力」事件から考える

それに対し、同教団の一牧師から
記事の取り上げ方について、こんな意見をいただいた。

 神の正義と公正、教会の聖さを表すという、教会本来の務めに心を砕くことをしなければ、同情や義憤ばかりが先行するのではないでしょうか。そうなると、このような問題と教会が「無縁ではない」と強く訴えたところで、せいぜいモラルの問題として受け止められ、「赦し」や悔い改めについて掘り下げることにならないでしょう。

他教派の同類の事件とあわせて、
イースター号で特集した記事だったが、
「被害者」側の情報に偏った報道で、
特集の前提が明確でなく、緊急性と公平性に欠き、
これでは「予防にも助けにも抑止力にもならない」
という厳しい指摘だった。

これに対し、私は概ね以下のように答えた。

 人間的な同情や義憤も、神さまから授かった大事な賜物だと考えます。むしろ、低下するキリスト者のモラルの問題にも目を向け、神の義があらわされるようにと祈り、自身の罪、教会の罪を告白していくことが「教会本来の務め」ではないでしょうか。

教会の務めと、キリスト教メディアの務めは
イコールではないし、まして原発事故にまつわる
東電の過失と「性暴力」とは性質が異なる。

しかし、いずれのケースでも決定的に欠けているのは、
感情的なだけではない静かな怒りと、
人間が犯す不義に対する憤りではないか。

そして、それこそが今、
「キリスト教がすべきこと」の一つだと思えてならない。


怒りを忘れたキリスト者(2)
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