それがキリスト教のすべきことか?

それがキリスト教のすべきことか?(最終回)

本連載も10回目を迎えたので、
ひとまずの区切りにしたいと思う。

私自身、震災以降はメディアのすべきこと、
そして「キリスト教のすべきこと」を求めて、
特に業界各誌をむさぼり読んだ。

しかし、被災の状況や支援の様子を報告する
レポートは数多ありつつも、私たちが思索するため
手がかりは意外なほどに少なかった。

『福音と世界』7月号の連載「交響する啓典の民」で、
伊東乾氏と対談した荒井献氏もこう語っている。

 現在こうした足元の出来事に対して、聖書学からの、あるいは神学からの回答があまりにも少ないのではないかと思っています。学者は現実問題には発言しない、というのが近年のアカデミズムのエートスになっていますが、本当は、聖書学や神学はそうであってはいけないと私は思いますね。たとえ間接的にではあっても、聖書の解釈というのは、現実の問題からなされていくべきだと考えています。絶えず自らの実存と関わりあいながら古典を読み解いていかなければ、文献学をやっていてもあまり意味がないのではないかとさえ思います。

教派によっては、説教において聖書の「み言葉」以外、
社会的な問題個人の体験などは一切語らない
(語ることを自制する)教会もある。

しかし、これだけ大きな被害をもたらした震災について、
直接・間接にひと言も触れない説教があり得るだろうか。

「Ministry」第2号の説教者インタビューで、
ルター研究者の徳善義和氏が1961年、ベルリンに壁ができた翌朝、
ハンブルクの教会で聞いた説教が忘れられない、
と話していたことを思い出す。

牧師は開口一番、「民族の歴史の中でとても痛ましいことが、
昨日の夜から今朝にかけて起こった。
私たちはできてしまった壁の向こうにいる
人々のために、そしてこちらにいる我々一人ひとりのためにも
祈らなければならない」と語り始めたという。

「そういう大事なことが起きたときに、礼拝でひと言も触れない説教者もいます。でも少なくとも僕は、何事もなかったかのように話すことができる説教者ではない。やはりそれを語らずにはいられません」(徳善)

「言葉の宗教」と言われるキリスト教が、
そして言葉を生業とする牧師と
私たちメディアの人間が、いまこそ語るべきなのだ。

たとえ、直後は「語るべき言葉」を見つけるのが困難でも、
語るべき責任を担うべきなのだ。
いま語らずして、いつ語るというのか。

それは決して、キリスト教、神学概念を持ち出して
悲劇を解釈し、知ったふうに解説し、こじつける言葉ではない。
現実から目をそらすことなく、真摯に向き合い、
飾らず、おごらず、高ぶらず、自らに与えられた言葉
駆使して語ろうと努力することが求められているのだ。

その意味で、次号「Ministry」の特集タイトルは
企画当初からすでに決まっていた。

「いま、語るべき言葉」

すでに編集作業は終えているが、
いまだ「終わった」という実感も、
答えが見つかったという充足感もない。
この模索は延々と続くに違いない。

そして、まだ「語るべき」立場にありながら
語っていない方々にはぜひ、自分の言葉で
語り始めてほしいと切に願う。

以下、特集のリードを引用して結びに代える。

 あの日以来、私たちは被災地の惨状に言葉を失い、自然の驚異を前にただ呆然と立ち尽くすしかない非力さに打ちひしがれている。「がんばろう」、「一つになろう」と鼓舞する威勢のいい応援もどこか空しい。いま、「3・11」後を生きるキリスト者がすべきことは、絶望の淵をさまようことでも、気休めの希望にすがることでもない。この現実に向き合い、思索し、そして、語るべき言葉を自らの口に取り戻すことだろう。そのためにも、さまざまな立場からのメッセージを発信することが、本誌にできるささやかな復興支援である。

それがキリスト教のすべきことか?(9)

今からさかのぼること17年前――。
福島在住の経済学者による1冊の本が上梓された。


清水修二『差別としての原子力』
(リベルタ出版・1994/3)


地域振興のため、潜在的危険と引き換えに
原発を誘致し続ける過疎地の論理と心理
踏み込み、原発推進のメカニズムを説き明かした本。

当時、双葉郡楢葉町の町長が
第二原発の運転再開に際して
「信じるしかない」と発言したことを
引用しながら、著者はこう指摘している。

 町民の多くもとことん尋ねられれば同じセリフを漏らすかもしれません。ここでは原発は科学の次元を超越してほとんど『信心』の問題になっています。『信じないこと』によって不安な毎日を送るよりも『信じること』で安穏な日々を暮らすことのほうを選ぶのが庶民の知恵なのだとしたら――それは奴隷の知恵でしょう。高御座(たかみくら)の天皇の足下で万歳を三唱するのと精神構造においてどれだけの隔たりがあるといえるでしょう。

取材で出会った福島県のある牧師は、震災以降、
原発の問題は決して他人事ではないこと、
これまでの原子力政策を推し進めてきた行政のあり方や、
それを支えてきた自らの加害性・当事者性について、
礼拝説教や祈祷会で間接的に問いかけてきたが、
「糠に釘だった」と漏らした。
「まったく届かない」というもどかしさは、今も抱えているという。

その心を萎えさせたのが教会員による次のような言葉。

「どうせみんな死ぬときゃ死ぬんだから」

「私たち(老人)はあと何年も生きられないから」

「政府は本当のこと言っていると思います」

「広島はすぐに復興できたんだから大丈夫よ」


安全か、危険か――。学者によって言うことは様々。
本当のところはわからないが、
目に見えないので「信じるしかない」
という「奴隷の知恵」としての思考停止と、
見えない神を「信じる」という私たちの信仰は
果たして同レベルであっていいのだろうか?

その牧師は、続けてこう言った。

「『最大多数の最大幸福』と語ったのはベンサムだったろうか。原発事故の前には、大哲学者ベンサムの考えも屁のようなものだったことが分かる。原発存在の論理は、沖縄を捨てて本土を守ろうとした大戦末期の大本営構造と良く似ている。結局日本の体質は、戦後も変わっていなかったってことでしょう」


【清水修二】 しみず・しゅうじ=1948年、東京都生まれ。1980年、京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。福島大学教授、副学長。

それがキリスト教のすべきことか?(8)

6/18付「中外日報」に興味深い記事があったので、
番外編として紹介したい。

被災地布教は是か非か
僧侶の使命めぐり宗派超え意見交換


 仏教伝道協会(沼田智秀会長)の第41回実践布教研究会が6月8~10日、京都市西京区の浄土真宗本願寺派本願寺西山別院で開かれ、約20宗派の僧侶ら約60人が参加した。東日本大震災を受け、宗教者の果たす役割などについて活発に意見交換。「被災地での布教は是か非か」。宗教者にとって根本的な問いも投げ掛けられた。


まさに、連載で触れてきたテーマと重なる。
宗教者が抱える課題は、かなり共通している。

信楽峻麿龍谷大学元学長の講話に続き、
震災と宗教者の関わりをテーマに討論が行われた。
記事では、救援活動と布教のバランスについての
やり取りを紹介している。

「宗派として布教がセットになるのか、それとも二の次なのか」

「信者になる、ならないは別として、こういう時だからこそ教えを伝えたい」

求めている人には法を説いてもいい」

「無信仰の人は今何にすがったらいいか、悩んでいるはず」

「迷いを覚えるし、混沌とした状況の中で勧誘は難しい

「ケース・バイ・ケースだ」

「私は布教を考えていない。行動自体が布教になっていると思う」


いやはや、いずれも率直で実にイイ

牧師や教会員もこのぐらいオープンに議論したらいい。
今回の震災後、キリスト教界ではこうした視点が
あまり見受けられないが、考えるべきテーマの一つ
であることは間違いない。

ちょうど、日ごろお世話になっている
クリスチャン葬儀士のはるさんが、
本連載に呼応して「伝道という下心」と題する
記事を書いてくださった。

 そして人々の遭遇する艱難という意味では震災に限らず我々の関わるところでいえば葬儀においても注意していかなければならないところです。

 「葬儀は伝道の場である」とはよく言われることですが、私はその表現をあまり積極的に支持していません。「きっかけとして重要だ」というならわかるのです。葬儀を通して結果的に信仰に導かれる人がいればそれは素晴らしいことですけれども、たとえ伝道という言葉を使うにしてもそれはあくまでも触れる側が神を求めるのであって、教会側が自分たちの信仰を押し付けるべきではないと思うからです。だから特定宗教専門葬儀社の中でも珍しく、実はウチのホームページには「伝道」という言葉がひとつも出てきません(それはそれでどうなんだ 汗


葬儀と震災は決してイコールではないが、
人の生き死に、病、艱難、悲劇、苦悩をどうとらえるか。
そして、「被災地伝道は是か非か」
そもそも伝道とは何ぞや……と、
議論すべきことは多々あるはずだ。

私たち被災地にいる者がすべきことは
人や物による外面的支援だけでなく、
目下の問題に直面する当事者ではできない
総合的かつ客観的視点による
深い思索と広い模索ではないだろうか。

それがキリスト教のすべきことか?(7)

キリスト教や教会を「応援する」立場にありながら、
細かいことにケチをつけたり足を引っ張ったり……
と誤解されかねないと思いつつ、それでも
本来のキリスト教がすべきことは何かを
模索し続けることこそが、ひいては愛する教会のためになる
と信じて批判的検討を続けたい。

今回は、震災後の取材で耳にしたキリスト教系
支援活動に関するさまざまな(ノンクリからのものも含む)。

いずれもウラを取ったわけではないので
立場を変えれば他の見方も当然あり得るし、
それぞれの信憑性については読者に委ねるとして、
少なくともそう感じた人たちがいたという
事実だけは伝えておきたい。


「『愛』や『献身』『奉仕』というキリスト教の精神に依存し、貴重な人材が安価で『いいように』使い捨てられている」

「団体間の支援『競争』が過熱し、どれだけ速く、大量に物資を届けられるかを競い合っているように見えた」

プロの支援団体が入ってきたことで、素人にはとても手が出せなくなってしまった」

「こっちは早朝から深夜まで無償で働いてきたのに、ある日突然、責任者の個人的な縁故で有給スタッフが雇われた」

「被災地のボランティアに行ったのに、震災前から汚れていたと思われる個人宅の掃除をやらされた」

「ボランティアのために用意された昼食を、『安く食べられるから』といって食べていく牧師がいて辟易した」

「過労で体調を崩した職員が、『職務放棄か』と責められた」

「やたらと名前を売りたがる牧師、教派、教会、団体がいて困った」

「責任者が、『上司の尻拭いをするのが部下の務め』と言い放った」

「支援物資として献品された物を私物として持ち帰った牧師がいた」

「支援していた地域が出身地の近くだったので、できればボランティアを続けたかったが、耐えられずにやめた」

「責任逃れを続けていた牧師が、外部向けの広報誌には、さも自分が中心に活動を支えてきたかのように書いていた」

「意に沿わない者を評価せず、身内、学閥、教派、教区に囲われた内輪の『仲良しサークル』の域を出ていない」



しょせん教会も罪深い人間の集まりということか……。

おそらくこれらの声なき声は、
被災者支援のケースに限らず、教会、学校、
企業を含めたキリスト教界全体が抱える
普遍的な課題だと思われる。

あなたの身近でも、
思い当たる節がないだろうか……

それがキリスト教のすべきことか?(6)

連日、アクセス数が急増しているのは
やはりこの連載の影響だろうか…

ともあれ今回は、カルト問題について警鐘を鳴らしてきた
川島堅二氏(恵泉女学園大学教授)の
宗教学研究室掲示板に興味深い記事があったので、
ご本人の許可をいただき紹介したい。

大震災とキリスト教

 4月23日発行の日本基督教団の機関誌(隔週発行)『教団新報』(4721号)は、トップで被災地を訪問した教団関係者の報告記事を載せている。岩手県の海岸沿いの被災教会を一つ一つ訪ね、その様子を克明に知らせてくれている。その労に感謝しつつも、教団幹事加藤誠牧師によるこの記事の結びの言葉が、やはり気になってしまった。そこには次のように記されている。

 「この度の震災は、歴史と宇宙を誰が統治するのか、を明快にした。日本の救いは、教会の伝道に懸かっている。神はこの国を憐れみ教会を力づけ、日本を救って下さるに違いない」

 一昨日、東大仏教青年会で行われた「宗教者被害支援連絡会」にて、伝統仏教や新宗教の関係者による被災者支援の報告を聞いて、多くの寺院が畳の大広間を避難所として開放したり、天理教の「ひのきしん隊」が、自前の重機を持ちこんで被災地のがれき撤去に取り組んだりしていることを知らされていたので、上記の加藤幹事による結語が余計に空しく響いてしまう。

 最初の一文「この度の震災は、歴史と宇宙を誰が統治するのか、を明快にした」は、分からなくもない。確かに、「この震災は人間が制御できない自然の猛威により、歴史と宇宙は人間が統治しているのではないということを明快にした」とは言えるだろう。では「誰が統治するのか」の「誰」には、どういうお方の名前が入るのか。加藤氏は「天地の創造者、イエス・キリストの父なる神」と言いたいのだろう。しかし、それと全く同じ権利を持って、八百万の神々や仏たちの名前も入りうることを私たちは忘れてはならない。

 続く第二文「日本の救いは、教会の伝道に懸かっている」は、全く意味不明である。日本人がすべてキリスト教徒になれば、今後、何十年にもわたって続くと予想される深刻な放射能汚染も解決するというのだろうか。日本の目下の救いは、教会の伝道などにかかっていない。被爆の恐怖と闘いながら、劣悪な環境下、身を呈して原発を制御しようとしている東電の社員や、その下請けの労働者たちにかかっているのだ。そうした状況への想像力が多少でもあれば、「神は教会を力づけ、日本を救って下さるに違いない」などとは書けないだろう。それとも、この期に及んで、原発労働者が取り組んでいるのは「肉の救い」、教会がもたらすのは「霊の救い」とでもいうのだろうか。(2011年4月26日)

*太字は引用者


日本基督教団における諸発言の真意は、
複雑な歴史的背景と内部の対立関係なども
あわせて慎重に見極めなければならない。
私自身は教団の会員でもないし、いずれかの立場に
肩入れするものでもないが、やはり川島氏とほぼ同意見である。

キリスト者にとって、「歴史と宇宙を誰が統治するのか」は
震災が起こる前から「明快」だったはずである。

しかも世間を見渡せば、この震災によって「神も仏もない」と
無神論に傾いたという言説も少なくない。
それをどう考えるのか。

この先、「教会」や「日本」が救われるかどうかは
人間にはわかるはずもないし、少なくとも
それを確信する根拠は、ここでは何も示されていない。

ちなみに、「教団新報」の全文はこちら
東日本大震災 戦場さながらの被災地を行く

こんなことを書くと、教団内では
伝道を軽視する「リベラルな社会派という
レッテルを貼られてしまうらしい。

何度でも言おう。

「ウチはどこ派」「オタクはどこ神学校
がなんぼのもんじゃい!

こちとら、……


ミッション系キリスト派イエス組じゃ!
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