新教出版社が発行する月刊誌「福音と世界」
8月号の特集は、ズバリ!「ヨブ記と神義論」。
震災後、一般誌を含む様々な媒体で
「ヨブ記」に関する言及を目にしてきたが、
そこはさすが専門版元の強さというべきか、
最も的を射た誌面というのが率直な感想である。
ライバル誌ながらあっぱれ
なかでも、「ヨブ記」に関する著書の多い
国際基督教大学名誉教授の並木浩一氏による
寄稿「ヨブ記からの問いかけ」は必読である。
並木氏は、ユングをはじめとする多くの知識人が
「彼(ヨブ)の問いを取り上げない神の弁論を
神の苦し紛れの力の誇示と見なして評価しない」と指摘する。
まさに、私が目にした多くの非信徒による
「ヨブ記」解釈はこの類がほとんどであった。
文中でも紹介されているとおり、
阪神・淡路大震災の後に「苦難を超える」と題して
講演した、かの吉本隆明氏も然り。
「サンガジャパン」vol.6に寄稿した
『ふしぎなキリスト教』の大澤真幸氏も然り。
しかし、並木氏はこれらに鋭く切り込む。
神の弁論において、もし神がヨブの問いに少しでも答えるならば、苦難から不条理は取り去られ、世界事象のすべては神意のもとでの必然となる。世界の内部の事柄が人間の責任であるという基盤がなくなる。世界のあり方についてヨブに示されたのは、神が悪を欲しないという意志だけであった(38:12-15、40:11-12参照)が、それは人間が非力であっても、正義を実現する責任があることを示唆する。もし有責者が神であるなら、人間の主体性も自由も成立しない。神が人間のモラルの問題に直接の答えを与えなかったのは当然であった。ここから神のモラルに対する無関心を読み出してはならない。
……しかしその世界は神の統治の妙が働く「外部世界」である。人がそれを認識することは二重の意味を持つ。第一に、人間は外部世界で意味を持つ弱肉強食の掟を人間世界に持ち込んではならない。第二に、人間は外部世界の秩序に無制約に介入してはならない。そのような介入は越権である。被造物を「支配させよう」(創世記1:26)という人間に対する神の配慮は、創造の秩序をかき乱さないという義務を伴うと理解すべきである。人間が生を維持するための文明は自然界に対する干渉によって成り立っていることは否定できない。それゆえにこそ自然界の一員として創造の秩序を守るべき人間の責任が発生する。
……今回の東日本を襲った大地震と津波の発生は北米大陸プレートが過去に数百回も行ってきた自然界のリズムによる。このリズムに十分な顧慮を払った生活形態を築かなければ、人びとは再び悲惨な状況に追い込まれるであろう。ヨブ記は今日、人間に固有な責任の確認と外部世界の独自性の承認とをわれわれに問うている。
*太字は引用者
……スッキリ
アプローチの仕方が異なるものの
本誌にも欲しかった、この「スッキリ感」。
やはり、学者センセイの説得力は違う。
我々凡人にはとうてい及ばない
そーか、「ヨブ記」ってそーゆー話だったのか、
と今さらながら納得した次第である。
ついでながら、「神義論」を考える際に
いつも思い出す作品がある。
それは、2009年に加瀬亮、岡田将生の
W主演で映画化もされた……
伊坂幸太郎『重力ピエロ』
(新潮文庫・2006/7)
重い運命を背負った次男の出生に際し、
決断を迫られた信仰も持たない父親が、
とっさに神に問いかける場面で、
天から答えがはっきりと聞こえる。
「自分で考えろ!」
父は言う。
「考えてみると、これは神様の在り方としては、
なかなか正しい」
「ヨブ記」の「ヨ」の字も
「キリスト教」の「キ」の字も出てこない
気鋭の作家伊坂幸太郎による現代小説。
真理は案外、身近な所に隠れているものなのだ。
8月号の特集は、ズバリ!「ヨブ記と神義論」。
震災後、一般誌を含む様々な媒体で
「ヨブ記」に関する言及を目にしてきたが、
そこはさすが専門版元の強さというべきか、
最も的を射た誌面というのが率直な感想である。
ライバル誌ながらあっぱれ
なかでも、「ヨブ記」に関する著書の多い
国際基督教大学名誉教授の並木浩一氏による
寄稿「ヨブ記からの問いかけ」は必読である。
並木氏は、ユングをはじめとする多くの知識人が
「彼(ヨブ)の問いを取り上げない神の弁論を
神の苦し紛れの力の誇示と見なして評価しない」と指摘する。
まさに、私が目にした多くの非信徒による
「ヨブ記」解釈はこの類がほとんどであった。
文中でも紹介されているとおり、
阪神・淡路大震災の後に「苦難を超える」と題して
講演した、かの吉本隆明氏も然り。
「サンガジャパン」vol.6に寄稿した
『ふしぎなキリスト教』の大澤真幸氏も然り。
しかし、並木氏はこれらに鋭く切り込む。
神の弁論において、もし神がヨブの問いに少しでも答えるならば、苦難から不条理は取り去られ、世界事象のすべては神意のもとでの必然となる。世界の内部の事柄が人間の責任であるという基盤がなくなる。世界のあり方についてヨブに示されたのは、神が悪を欲しないという意志だけであった(38:12-15、40:11-12参照)が、それは人間が非力であっても、正義を実現する責任があることを示唆する。もし有責者が神であるなら、人間の主体性も自由も成立しない。神が人間のモラルの問題に直接の答えを与えなかったのは当然であった。ここから神のモラルに対する無関心を読み出してはならない。
……しかしその世界は神の統治の妙が働く「外部世界」である。人がそれを認識することは二重の意味を持つ。第一に、人間は外部世界で意味を持つ弱肉強食の掟を人間世界に持ち込んではならない。第二に、人間は外部世界の秩序に無制約に介入してはならない。そのような介入は越権である。被造物を「支配させよう」(創世記1:26)という人間に対する神の配慮は、創造の秩序をかき乱さないという義務を伴うと理解すべきである。人間が生を維持するための文明は自然界に対する干渉によって成り立っていることは否定できない。それゆえにこそ自然界の一員として創造の秩序を守るべき人間の責任が発生する。
……今回の東日本を襲った大地震と津波の発生は北米大陸プレートが過去に数百回も行ってきた自然界のリズムによる。このリズムに十分な顧慮を払った生活形態を築かなければ、人びとは再び悲惨な状況に追い込まれるであろう。ヨブ記は今日、人間に固有な責任の確認と外部世界の独自性の承認とをわれわれに問うている。
*太字は引用者
……スッキリ
アプローチの仕方が異なるものの
本誌にも欲しかった、この「スッキリ感」。
やはり、学者センセイの説得力は違う。
我々凡人にはとうてい及ばない
そーか、「ヨブ記」ってそーゆー話だったのか、
と今さらながら納得した次第である。
ついでながら、「神義論」を考える際に
いつも思い出す作品がある。
それは、2009年に加瀬亮、岡田将生の
W主演で映画化もされた……
伊坂幸太郎『重力ピエロ』
(新潮文庫・2006/7)
重い運命を背負った次男の出生に際し、
決断を迫られた信仰も持たない父親が、
とっさに神に問いかける場面で、
天から答えがはっきりと聞こえる。
「自分で考えろ!」
父は言う。
「考えてみると、これは神様の在り方としては、
なかなか正しい」
「ヨブ記」の「ヨ」の字も
「キリスト教」の「キ」の字も出てこない
気鋭の作家伊坂幸太郎による現代小説。
真理は案外、身近な所に隠れているものなのだ。