れびゅう Movie

最後の命

(2014・日本/監督 松本准平/原作 中村文則)

 幼少期に凄惨な婦女暴行事件の現場を目撃してしまった幼い桂人と冴木。その忌まわしい記憶に翻弄されながら、それぞれに成長の途をたどる2人。社会的接点を絶ち、半ば引きこもる桂人は、冴木からの連絡で思わぬ再会を果たすも、自室で起こった殺人事件のために警察の取り調べを受ける。そこで知らされたのは、冴木が容疑者として指名手配中であるという事実だった。

 倒錯した性への目覚めと嫌悪。病む心。目を覆いたくなる現実。それでも、もがきながら友を想う「愛情」とも「友情」ともつかない気持ち。やがて開かれる扉の先には――。

 幼い2人が家を抜け出した際の合言葉は、「世界が終わる」。そこには、陰鬱としたこの世に終わりを告げる終末への希望が込められている。小さな肩に背負わせるには、あまりに過酷すぎる運命。死と隣り合わせの儚すぎる生と、それゆえに愛おしい命。

 複雑な葛藤を抱えた役柄を、主演の柳楽優弥と旧友・冴木役の矢野聖人が好演している。柳樂は「誰も知らない」でのセンセーショナルなデビュー以来、紆余曲折を経ての完全復帰。その陰りを帯びた佇まいは、まさにハマり役と言っていい。

 米ニューヨークで開催されたチェルシー映画祭のコンペティション部門に日本映画として初めて出品され、最優秀脚本賞を受賞。瑞々しいエネルギーを発揮した若き才能に期待が集まる。

 「本当の希望は悲劇を通り越した向こうにある」と中村文則は言う。原作が書かれた2007年と映画化された今日では、震災を挟んで「希望」の意味合いが微妙に異なるが、人間の悲惨は有史以来変わることがない。

 前作の「まだ、人間」同様、松本監督の作品には、一貫した神学的問いが内在する。本作も、宗教改革者マルティン・ルターの言葉で幕を開ける。人類の拭いがたい「罪」とは。「愛」とは。「善か悪か」、「希望か絶望か」と二者択一を迫ろうとする世の中に正面から「否」と叫ぶ。暗く重い絶望的な現実の中にこそ、真の希望があるに違いない。

(2014年秋号 Ministry「シネマ黙想」)

聖☆おにいさん

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(2013年・日本/監督 高雄統子)

 ついに、ここまで来た。世紀末を乗り越えたイエスとブッダが、東京・立川のアパートで同居し、下界でバカンスを楽しむという奇想天外な設定で、2006年の「モーニング・ツー」(講談社)連載開始以来、漫画界のみならず宗教界にも旋風を巻き起こしてきた『聖(セイント)☆おにいさん』。

 09年には「このマンガがすごい!」のオトコ編で1位、同年の手塚治虫文化賞短編賞も受賞。単行本は大英博物館で展示されるなど、海外からも注目を集め、累計発行部数は1千万部を突破した。同作のヒットは、その後の阿修羅展やパワースポットを含む「宗教ブーム」にも多大な影響を及ぼした。

 今回、数々のミラクルを起こしてきた2人が、紙面を飛び出し、いよいよ劇場スクリーンへ「降臨」。漫画ならではの軽快なテンポには劣るものの、連載開始当初の勢いと中村作品特有のタッチは忠実に再現。大画面に映し出される緻密な情景描写も見逃せない。

 四季折々の宗教行事を無邪気に楽しむ姿は、実にほほえましい。世が世なら(国が国なら)宗派間抗争の火種にもなりかねない難題だが、宗教関係者を含め、広く支持される土壌はやはり日本ならでは。いわば、天上界の視点で現代を素描した宗教版『テルマエロマエ』に、下町の情緒あふれるニッポンの原風景を愛しむ『三丁目の夕日』テイストを加味した物語である。

 他方、教会内には、信仰・崇敬の対象を「笑いのネタ」にすることへの抵抗があるのもまた事実。信仰とは別次元で一種のエンターテインメントとして許容できるかどうかは、個々人の信仰観にも関わる分水嶺といえるかもしれない。はたまた単なる笑いのツボの違いか?

 イエスの声を演じる俳優の森山未來は、今年の日本アカデミー賞にも複数の出演作品がノミネートされる若手注目株だが、自身も幼いころにはカトリック教会に通っていたという。ブッダ役にはミュージシャンとしても活躍中の俳優・星野源。ともに声優初挑戦ながら、既存の「聖人」像を覆すキャラクターに息を吹き込むという大役を見事にこなした。

 この流れでありがちな実写版だけは勘弁願いたいが、できれば今度はテレビアニメとして、お茶の間で「最聖」コンビのゆるい日常を満喫したい。

(2013年春号 Ministry「シネマ黙想」)

わすれない ふくしま

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(2013年・日本/監督 四ノ宮浩)

 震災からもうすぐ2年。福島県に住む知人は、何よりも目下最大の不安は、メディアが取り上げなくなり、世間から忘れられることだと漏らした。先の衆院選の結果を見るにつけても、その不安には同調せざるを得ない。

 この2年間、震災にまつわる映画は種々撮られてきたが、福島県飯館村の、しかも特定の個人や家族に焦点を絞って密着したドキュメンタリーは珍しい。『忘れられた子供たち』などでフィリピンの貧困を描いてきた監督が、足しげく現場を訪ね、忘却にあらがう。エンディングテーマを歌うのは、カトリック六甲教会信徒の音楽家、こいずみゆりさん。

 福島第一原発から40キロ北西に位置する、「日本一美しい村」といわれた村。緑豊かな田園風景。のどかに響き渡るうぐいすの鳴き声。テレビを見ながら食卓を囲む家族。一見するとごくありふれた日常だが、まだあどけなさの残る幼稚園児のまさとくん(4歳)とその一家には、見えない不安が影を落とす。

 仮の住まいを転々とする避難生活、日常的に「放射能」という言葉を口にする子どもたち、牛舎につながれたまま白骨化した牛たちの死骸、今も壁に残されている自殺した酪農家の遺言、建設現場での事故で半身不随になる父――。そこには、お手軽な希望などかけらもない。そしてその裏側には、震災前からすでに突き付けられていた過疎地の実態が見え隠れする。

 「自死遺族」にカメラを向け、粘り強く問いかける場面など、撮影手法に異論も出そうだが、何としても伝えたいというスタッフの情念は伝わる。数々の修羅場をくぐってきた監督ならではの荒業だろうが、そこまでしなければ到底えぐり出せないふくしまの”現実”が、確かにある。決して後味のいい映画ではない。胸に生じた”ざわめき”もなかなか消えない。淡々とした記録映像が何かを声高に主張することはないが、底流にふつふつと流れる監督の憤りが聞こえてくる。

 「日本人の仕事や大切な故郷を根こそぎ奪い、善良なるひとびとを病気や死に追いやるものなどは絶対にこの日本にはいらないのです」

(2013年冬号 Ministry「シネマ黙想」)

天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”

(2012年・日本/監督 河邑厚徳)

 一人の料理家が、脳梗塞で倒れた父のために丹念に作り上げたスープ。それがやがて、人々に希望を与える「いのちのスープ」として全国に広がり、そのために食材を提供する生産者、「スープ教室」の教え子たち、スープを口にする老若男女をつなげていく。そして、「愛と平和」を守り育んでいくのが「スープの湯気の向こうに見える実存的使命」だと辰巳芳子さんはいう。

 終末期医療に携わる医師や看護師らを招いた特別教室を機に、緩和ケア病棟でスープを提供する試みも広がった。辰巳さんが参加者に投げかけた激励の言葉を、身を粉にして仕える世の牧師たちへそのまま贈りたい。「こんなに大変なお仕事を長くお続けになるなんて、一つの大きな恵みをいただいてらっしゃると思う。誰もがこのお仕事ができるとは限らない。非常に限られた方がおできになるんじゃないですか? ……だから、まず(自らスープを飲んで)自分の命を持ち運んでほしい。いつまでも末長く元気で、ご自分自身が楽しく仕事をできるように」

 カトリックの洗礼を受けた辰巳さん。スープの定番「ポタージュ・ボン・ファム」を作りながら、「ボン・ファム」が貴婦人を意味することに触れ、赤ちゃんからお年寄りまで万人に抵抗なく受け入れられる「『ポタージュ・サンタ・マリア』かもしれないね」とぽつり。

 画面からあふれ出る「美しさ」は、カメラの性能や撮影技術によるものだけでなく、四季折々の自然や、それらを愛でる辰巳さん自身のたたずまいによるのだろう。「食」にまつわるドキュメンタリーでありながら、原発、戦争、医療、農業、環境、ハンセン病、命の尊厳など、想起させられるテーマは限りなく広い。

 この島国で営々と受け継がれてきた和食の知恵と、教会という共同体が伝承してきた聖晩餐には、どこか通じるものがある。食べものを食べ、おつゆもの(スープ)を飲むという人間の営みそのものが、実にサクラメンタルな行為だったのだと気づかされる。辰巳さんの言葉を借りるならば、「食すことは、いのちへの敬畏。食べものを用意することは、いのちへの祝福」であり、祈りであり、賛美でもあるのだ。

(2012年秋 Ministry「シネマ黙想」)

夏の祈り

(2012年・日本/監督 坂口香津美)

 同じ原爆によって甚大な被害を受けたナガサキが、「怒りの広島」との対比で、「祈りの長崎」と呼ばれることには理由がある。本作でたびたび登場する浦上天主堂での祈りや、合間に挿入される聖歌「み母マリア」を聞きながら、改めてその意味を反芻する。

 長崎純心聖母会が運営する被爆高齢者のための特別養護老人ホーム「恵の丘長崎原爆ホーム」は、森の奥深くにひっそりと建つ。今年6月時点で入居している350人のうち、ほとんどが車椅子での生活を余儀なくされており、映画に登場する被爆者のうち、41人がすでに亡くなっているという。「語り部」としての被爆者に残された時間はそう長くない。

 このたび、ホーム内での撮影許可が初めて下りた背景にも、「今のうちに被爆者の真の姿、声、思いを遺しておきたい」という切なる願いがあった。作中では、年に数回、「平和学習」のために訪れる小中高生に向けて、��被爆劇�≠�上演する利用者たちの姿が映し出される。

 被爆者にとって、当時の惨状を思い出し、口に出して他人に語ることは並大抵のことではない。にもかかわらず、本作に登場する被爆者たちは、小さな観衆を前に、自らの体験を舞台上で忠実に「演じる」のである。繰り返し、何度も何度も……。その鬼気迫る演技は、観る者を釘づけにして離さない。

 東日本大震災による原発事故が発生したのは、本作の撮影直後。長崎大学構内の病理標本保管室で、5000件に上る急性被爆症患者の臓器を前に、研究員が内部被曝について語るシーンは、震災前に撮られたものとは思えない。毎朝、ホームに届けられた新聞を黙々と整理する本作の主人公、本多シズ子さんは、どんな心境で事故後の記事を読んでいるだろうか。

 体に受けた傷跡をさらけ出し、原爆の恐ろしさを訴える被爆者がいる。マイクを持って楽しそうに大声で歌う被爆者がいる。人間が創り出した核の脅威を前に、衰える心身にあらがいながら、毅然として生きる被爆者たち。カメラは、技術的にも芸術的にも決して秀逸とはいえないものの、ただ静かに、その日常に寄り添う。

 間もなく被爆地ナガサキは、67回目の夏を迎える。長崎にも「怒り」はある。被爆者たちの悲しみと苦しみは、この先も癒えることはない。しかし、それでもなお、ロザリオを手に祈り続ける被爆者たちの姿は、眩いほどに勇ましい。

(2012年夏号 Ministry「シネマ黙想」)
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