続いてもう一カ所。
香山 この前テレビで、��靖国参拝イエスかノーか�≠�テーマにした番組があって、参拝に反対する三十代の若い民主党の議員が言うことにびっくりしたんですよ。��決して靖国に祀られている英霊は、日本と中国がこうなることを喜んでいない。だから、行くのは英霊に対して敬っていることにならないんじゃないか�≠チて。英霊が喜んでいるかどうかなんて、わからないじゃないですか(笑)。でも、それをすごく真面目に根拠として言っていたから。
大塚 英霊と口にする人に、信仰心とか宗教心があるかといったら、まったくないんだよね。だから参拝が政治的パフォーマンスになっちゃう。
香山 何かの大義名分にされてるだけですよね。
大塚 そう。死者を政治的パフォーマンスの方便としているって、それこそ失礼でしょ。死者に対する想像力みたいなものがないから、英霊なんて気軽に口にできちゃうわけでしょう。実際には、特攻隊の人が心理的ストレスで直前に目が見えなくなっちゃったとか、みんなが「靖国で会おう」ってさわやかに死んでいったんじゃないよ。……英霊ということばとか「未来を信じて戦った人たちを敬え」ということに対して、具体的な想像力がなくてこれを使って政治家がパフォーマンスする、というのは本当に死者への冒涜だと思うんだけどね。
神道とキリスト教、特に戦前の国家儀礼との親和性については
「Ministry」で連載中のSF時代冒険漫画「タイムっち」
に譲るとして……。
実は、次号の同誌で「死と葬儀」を特集する都合で
キリスト教の「死生観」についても取材をしているのだが、
やはり方々で耳にするのは、「故人の遺志」をめぐる問題。
「こういう葬儀を故人は喜ぶだろうか」
「故人が望むように葬ってあげたい」
言わずもがな、「死人に口なし」。
故人は遺言でしか希望を伝えることはできない。
それをいいことに、都合よく解釈しようとする場合がある。
関連して思い出したのは、キリスト教学校で
よく耳にした「神様に喜ばれる」というフレーズ。
神格と共に「人格」を持ったキリスト教の神ならば、
確かに喜ぶことはあるだろう。
聖書では、怒る場面も、悲しむ場面も描かれている。
しかし、それは人間に推し量れる程度のものだろうか。
ましてや子どものしつけのために神を引っ張り出して、
「そんなことをしたら、神様は喜ばれない」とか、
「神様に喜ばれるような人間になりなさい」
と説くのは、おこがましくないだろうか。
人間の越権行為に当たらないだろうか。
「善行」を神が喜ぶ?
神に喜ばれるために「善行」をなす?
それこそ、香山氏の言を借りるならば、
神様が喜んでいるかどうかなんて、わからないじゃないか。
香山 この前テレビで、��靖国参拝イエスかノーか�≠�テーマにした番組があって、参拝に反対する三十代の若い民主党の議員が言うことにびっくりしたんですよ。��決して靖国に祀られている英霊は、日本と中国がこうなることを喜んでいない。だから、行くのは英霊に対して敬っていることにならないんじゃないか�≠チて。英霊が喜んでいるかどうかなんて、わからないじゃないですか(笑)。でも、それをすごく真面目に根拠として言っていたから。
大塚 英霊と口にする人に、信仰心とか宗教心があるかといったら、まったくないんだよね。だから参拝が政治的パフォーマンスになっちゃう。
香山 何かの大義名分にされてるだけですよね。
大塚 そう。死者を政治的パフォーマンスの方便としているって、それこそ失礼でしょ。死者に対する想像力みたいなものがないから、英霊なんて気軽に口にできちゃうわけでしょう。実際には、特攻隊の人が心理的ストレスで直前に目が見えなくなっちゃったとか、みんなが「靖国で会おう」ってさわやかに死んでいったんじゃないよ。……英霊ということばとか「未来を信じて戦った人たちを敬え」ということに対して、具体的な想像力がなくてこれを使って政治家がパフォーマンスする、というのは本当に死者への冒涜だと思うんだけどね。
神道とキリスト教、特に戦前の国家儀礼との親和性については
「Ministry」で連載中のSF時代冒険漫画「タイムっち」
に譲るとして……。
実は、次号の同誌で「死と葬儀」を特集する都合で
キリスト教の「死生観」についても取材をしているのだが、
やはり方々で耳にするのは、「故人の遺志」をめぐる問題。
「こういう葬儀を故人は喜ぶだろうか」
「故人が望むように葬ってあげたい」
言わずもがな、「死人に口なし」。
故人は遺言でしか希望を伝えることはできない。
それをいいことに、都合よく解釈しようとする場合がある。
関連して思い出したのは、キリスト教学校で
よく耳にした「神様に喜ばれる」というフレーズ。
神格と共に「人格」を持ったキリスト教の神ならば、
確かに喜ぶことはあるだろう。
聖書では、怒る場面も、悲しむ場面も描かれている。
しかし、それは人間に推し量れる程度のものだろうか。
ましてや子どものしつけのために神を引っ張り出して、
「そんなことをしたら、神様は喜ばれない」とか、
「神様に喜ばれるような人間になりなさい」
と説くのは、おこがましくないだろうか。
人間の越権行為に当たらないだろうか。
「善行」を神が喜ぶ?
神に喜ばれるために「善行」をなす?
それこそ、香山氏の言を借りるならば、
神様が喜んでいるかどうかなんて、わからないじゃないか。