2010/07

子どもたちが書いた憲法前文 2

続いてもう一カ所。

香山 この前テレビで、��靖国参拝イエスかノーか�≠�テーマにした番組があって、参拝に反対する三十代の若い民主党の議員が言うことにびっくりしたんですよ。��決して靖国に祀られている英霊は、日本と中国がこうなることを喜んでいない。だから、行くのは英霊に対して敬っていることにならないんじゃないか�≠チて。英霊が喜んでいるかどうかなんて、わからないじゃないですか(笑)。でも、それをすごく真面目に根拠として言っていたから。

大塚 英霊と口にする人に、信仰心とか宗教心があるかといったら、まったくないんだよね。だから参拝が政治的パフォーマンスになっちゃう。

香山 何かの大義名分にされてるだけですよね。

大塚 そう。死者を政治的パフォーマンスの方便としているって、それこそ失礼でしょ。死者に対する想像力みたいなものがないから、英霊なんて気軽に口にできちゃうわけでしょう。実際には、特攻隊の人が心理的ストレスで直前に目が見えなくなっちゃったとか、みんなが「靖国で会おう」ってさわやかに死んでいったんじゃないよ。……英霊ということばとか「未来を信じて戦った人たちを敬え」ということに対して、具体的な想像力がなくてこれを使って政治家がパフォーマンスする、というのは本当に死者への冒涜だと思うんだけどね。



神道とキリスト教、特に戦前の国家儀礼との親和性については
Ministry」で連載中のSF時代冒険漫画「タイムっち」
に譲るとして……。

実は、次号の同誌で「死と葬儀」を特集する都合で
キリスト教の「死生観」についても取材をしているのだが、
やはり方々で耳にするのは、「故人の遺志」をめぐる問題。

「こういう葬儀を故人は喜ぶだろうか」

故人が望むように葬ってあげたい」

言わずもがな、「死人に口なし」。
故人は遺言でしか希望を伝えることはできない。
それをいいことに、都合よく解釈しようとする場合がある。

関連して思い出したのは、キリスト教学校で
よく耳にした「神様に喜ばれる」というフレーズ。

神格と共に「人格」を持ったキリスト教の神ならば、
確かに喜ぶことはあるだろう。
聖書では、怒る場面も、悲しむ場面も描かれている。

しかし、それは人間に推し量れる程度のものだろうか。
ましてや子どものしつけのために神を引っ張り出して、
「そんなことをしたら、神様は喜ばれない」とか、
神様に喜ばれるような人間になりなさい」
と説くのは、おこがましくないだろうか。
人間の越権行為に当たらないだろうか。

「善行」を神が喜ぶ?
神に喜ばれるために「善行」をなす?

それこそ、香山氏の言を借りるならば、
神様が喜んでいるかどうかなんて、わからないじゃないか。

子どもたちが書いた憲法前文 1

少し前の本になるが、サブカルつながりで
香山リカ(精神科医)と大塚英志(漫画原作者)の両氏が、
憲法をめぐって対談した本から。


大塚英志編
『香山リカと大塚英志が子供たちが書いた
憲法前文を読んで考えたことと
憲法について考えてほしいこと』
(角川書店・2005/12)


大塚 もしかするとこの後、国民投票とかの流れが出てきた段階で、憲法についての潜在的な対立軸ってこれになっていくんじゃないかって気さえする。「小さな生活しか考えたくない」派と、現状の護憲・改憲関係なく、一応「憲法のこととかパブリックに考えようよ」派とに。

香山 ……自分の今日明日の生活が変わらなければどっちでもいい、ということなんでしょうね。狭い檻の中で、今日一日ご飯も出たし良い一日だったね、温かい布団もあるしと。外で何が起きているのか関心がないというか、存在しないのと同じですよね。

大塚 ……「今日一日がよければOK」で終わってほしくないのは、例えばナチスドイツ時代のドイツでは、ユダヤ人だけがガス室に送られながら、ドイツ人たちの日常生活は思ったほどに変化がなくて、淡々と日々の生活が続いていた。「憲法」の中で「自分の今日一日が良い一日だったらいい」って書くことは、そういう外で大変なことが起きていても自分の生活が良ければいいってことに実はつながっちゃう可能性もある。

香山 そうですね。視野がどんどん狭まり、最終的にはシェルター内さえ快適ならよい、という方向。


こうした視野狭窄をめぐっては、
自らの体験もふまえ、機会あるごとに話すようにしている。

日々キリスト教界の情報を集め、ニュースとして報じていると、
不毛な争いや対立の多さにしばしば暗い気持ちになる。
そして、教派、教会の間に厳然と立ちはだかる
断絶の壁や深い溝を前に、呆然としてしまうこともある。

業界で次々と出版される新刊本にしても、
「これは福音派」「これは改革派」「これは何々派」と色分けして、
自分と違う立場のものには触れようともしない。
とりわけ教団から「独立」し、自らのアイデンティティに
ある種の誇りとプライドを持っているような教派にかぎって、
そうした傾向が強い。

そもそも、毎週の礼拝で自分の魂が癒やされ、
慰められればそれで良し
とするキリスト者にとって、
私たちキリスト教メディアの発している他教派や教会外の情報は
何一つ役に立たない無用の長物なのかもしれない。

米聖公会の同性愛をめぐる分裂にしろ、
日本基督教団の聖餐問題にしろ、果てはカルト教団の問題にしろ、
事柄の是非は別として、同じキリスト教の抱える今日的課題であり、
決して無関心でいていいはずはないのに……。

イギリスの聖書学者、ウィリアム・バークレーはこう指摘する。

「自分の属する組織や教会、ひどい場合は自分の家族や友人しか
目にとめず、その外側の世界を見ることのできない人は、
教会の真の統一というものを全く知らない人間である」


キリスト教の価値観とは、業界や身内でしか通じないような
懐の狭いものではない
この世に生きるキリスト者にとって、
まったく無関係な事象などあり得ない。

逆にいえば、政治、経済、教育、福祉、文化など、
世のあらゆる分野、問題について、
キリスト教独自の視点から発信が可能であり、
あって然るべきなのだ。

書かれる側から見た新聞

崔昌華(チォエチャンホァ)牧師の企画展で
いただいた資料に、興味深いものがあったのでご紹介。

今から20年以上前――。
1985(86?)年6月8日、朝日新聞労組西部支部
新聞研究委員会が、崔氏を招いて行った講演
書かれる側から見た新聞」である。

まずは、新聞、マスメディアの果たすべき役割について。

 人権の闘いの中で、一番大事なのは、民衆の権利をどうしていくのかだし、そのことによって、新聞の読まれる度合いが違ってくる。……読者にとって身近な新聞の基準の1つは、自分が関心を持っている問題が載る回数と、その記事の深さではないかと思う。

 ……運動を通じ、こういう風に、意識を変え、物事を変えていくうえで、一番重要なものが繰り返していうがマスメディアの役割だ。ひとつの運動が起こっていく中で、新聞記者、新聞がどのような立場で、その役割をちゃんとやっていくのかが大きな問題となる。だからこそ新聞が、国家権力の手先になってほしくない。国家権力の抑圧の代弁者になってほしくない。新聞はどこまでも、読者の、一般民衆側の立場に立って、民衆の痛み、苦しみ、思いを出してほしい


講演の中で崔氏が再三強調するのは、
書く側と書かれる側の関係も、結局は
いかに信頼を築くかによって決まるということ。
それは、サービスを提供する側とされる側など、
他のあらゆる関係に共通して言えることでもある。

 つまり、国家権力と闘う時に、国家が一番恐れるのは、民衆がどれ程知っているのかということだ。民衆が知っている量が少なければ、なんとかできるわけで、民衆がたくさん知っているならば、それを軽くあつかえない。では、広く知らしめるために、新聞にどうやって書いてもらうか。私の体験では、人間としてのつながりが果たす役割が大きかった。

 ……記者がずっと取材して、帰る。その中から何を選んで出すかは、全く記者の独断、専権なのだ。しかし、私が言いたいこと、私はこれだけはぜひという所は、ドロップされて、全然別な所を出してしまうと、私の方は、この記者は本当に分かっているのかなと思ってしまう。ある面で、分かっていてドロップする場合もあるだろう。これは取材される側にとって大きな問題だ。……だから取材している記者が、やはり取材される人とのヒューマン関係をつくるというのが非常に大事だ。人間関係が深まれば深まる程、その人の顔とか思いとか、ずっと知っていき、そんな問題は起きなくなる。


では、そうしたヒューマン・リレーションはどのように築くべきか。

 取材される側にとって、初めての記者でも、取材の仕方やあとで書いた記事を読んでみたらある程度、信頼できるかどうか分かる。必ずしも、個人的にたくさん会うことではなく、スクラップもあるし、いろいろ資料があるのだから、やっぱりその事件を担当するからには、どの程度勉強をしているかということなのだ。信頼のもとになるのは勉強ですよ。……お前と私は一杯飲んだから信頼できたとか、仲良いじゃなくて、その問題に真剣にかかわって、勉強し、分かっていることが大事なんです。

これについては、短い記者生活ながら思い当たる節がある。
入社したての2007年、本紙3面に連載した
命カエシテ――栗生楽泉園を訪ねて」。

それまで、ハンセン病とキリスト教の深い関係については
ほとんど無知だったので、付け焼刃ではあったが、
短時間の間に必死で勉強した。

今読み返しても、まだまだ未熟で拙い文章ではあるが、
関係者からの反応は良かった。
まさに、勉強して書いた記事が、書かれる側と
信頼関係を築くうえで大きな力を発揮することを実感した。

腰を据えてルポを書くような余裕のない今となっては、
ただただ当時を思い起こして反省することしきり…

しかし、常に忘れてはならない職業倫理の原点
再確認させられる思いで、この講演を読んだ。

そして、かつて発行されたこんな本のことも思い出した
機会があれば入手して読んでみたいと思う。


『金曜芸能――報道される側の論理』
(週刊金曜日・2001/10)

崔昌華氏の手紙など展示

在日韓人歴史資料館で21日まで


 指紋押捺拒否運動などを通して在日韓国・朝鮮人の人権獲得に尽力した崔昌華(チォエチャンホァ)牧師の足跡をたどる企画展「1円訴訟――名前はチォエチャンホァ」が、在日韓人歴史資料館(東京都港区)で開かれている。

 同展は、在日大韓基督教会の牧師として、人質をとって籠城した金嬉老(キムヒロ)を説得するために面会し、その後、在日外国人の人権を守るために奮闘した昌華氏の生涯を写真で紹介したもの。すべて複写して残しておいたという直筆の手紙や、差別撤廃をアピールするため身に付けていたバッジなども展示されている。

 関連企画として、6月26日には生前の昌華氏による講演の映像を上映した後、次女の善恵(ソンヘ)氏が「アボジの遺したもの」と題し、指紋押捺拒否に至った経緯やその後の体験、残された膨大な資料について語った。開催中も続けている整理の進捗状況によっては、展示する写真も追加する考えだという。

 7月17日には、裁判などで共に闘ってきた犬養光博氏(日基教団福吉伝道所牧師)が「セッピョル(明星)を見上げつつ――『在日』の『今』を生きた崔昌華牧師」と題して講演。企画展を見て、写真に写る昌華氏が常に正装していたことに初めて気付いたとし、「いつ何が起こるか分からないという覚悟で、闘いの最前線に立っておられたのではないか」と述べた。

 また、「わたしたちが生きている『今』と、先生が生きた『今』をどうつき合わせて何を継承していくかというのが、与えられた問い」とした上で、「先生にとって裁判に勝つことが最終目的ではなく、真実を明らかにさせていくことが最大の課題だった。そうした戦い方が、多くの人々の協力を得てたくさんの記録が残された」「神の現実の中で生きておられたからこそ、人は変われるという確信を持って、多くの人材を育てることができた」と先達の功績をふり返った。

 企画展は入場無料(常設展示室は有料、大人200円・学生100円、65歳以上と18歳未満は無料)、8月21日まで開催中。問合せは同館(��03・3457・1088)まで。

(2010年8月7日 キリスト新聞)


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夏休みの憂鬱

世間はいよいよ夏休みに突入

毎年この時期、スタンプラリーのスタンプ張を片手に
駅構内を行き交うたくさんの子ども連れに遭遇する
いまや首都圏の風物詩と化した感さえある。

「付き合う親(あるいは祖父母)も大変だな~」と
これまで他人事のように眺めていたが、
実は案外、切実な問題であることに最近気づいた。

いま5歳のザウルスと2歳のラプトルは、
世間の夏休みにとらわれず保育園で預かってもらえる。
これは共働き世帯にとって、非常にありがたい。
延長保育であれば、最長8時まで頼める。

しかし小学校に入学した途端、
学期終了と共に子どもが行き場を失うことになる。
頼みの綱である学童も、保育園のように時間の融通はきかない。

そういう状態が、長ければ40日以上続く。
毎日学童というわけにもいかない。
高学年にもなれば、子ども同士で約束して遊んだり、
留守番したりも可能だろうが、低学年でそれは無理。

…となると、ろくに夏休みもとれないサラリーマン家庭は、
この先の見えない日々をどのようにクリアしているのだろうか

教員時代、夏休みを迎え嬉々とする子どもたちと裏腹に、
親の憂鬱そうな表情は確かに目にしていた。
休み明けの解放感にあふれた姿も見ていたはずだったが、
今になって初めて心から共感できる

思い返せば、わが家は父が教員、母が専業主婦だったので、
子どもの休みと家族の休みは完全に一致していた。
小学生のころは浜で育ったため、文字通り、
毎日のように海水浴に出かけた
そんな休みの過ごし方は当たり前のように思っていた。

しかし、共働きの現実は、3日連休で実家に帰省が関の山。
この7月からカノジョが新しい職場に異動となり、
ここのところ帰りの遅い日が続いていることもあって、
なおさら先のことをつい考えてしまう

一念発起して田舎に越した友人から、すべて手作り
家を建て、「北の国から」的生活を満喫していると聞いた。
わが家と同じ年頃の子どもたちが、朝から晩まで
外で遊んでいて帰ってこないらしい。

かつては田舎でのんびり子育てを理想としていたが、
ほど遠い生活。働き方と子育ての環境という葛藤。
そして、目前に迫る小学校入学夏休みという未知の世界

先輩パパ・ママの助言を仰ぎつつ、何とか乗り切りたいと
願っているが、果たしてどうなることやら…
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