立教大学経営学部の中原淳教授は、「常連さんがあまりに『固定化』し、次第に、『新規参入者を抑制してしまう』までに権力を有し、実際にそのような行動をとってしまう」という現象を「古参プロ問題」と名付け、「新規参入者が確保できないコミュニティは必ず『衰退』する」と指摘する。それは、お笑いコンビ「キングコング」の西野亮廣さんによる至言「ほとんどのコミュニティは風紀委員として過剰にドヤる古参が潰すことは歴史が証明している」と同じ意味を持つ。

 実はまったく同じ問題がキリスト教業界にも根強くある。「教会員があまりに『固定化』し、次第に、『新しくクリスチャンになろうとする人を抑制してしまう』」のだ。おそらくこれは、他のジャンル(アイドル、サッカー、プロレスなど)のファン層を広げる上でも共通の課題と言えそうだ。

 キリスト教学校の事務職員という立場は、おそらく「古参プロ(ガチ勢)」「新規参入者(にわか)」かで言えば後者に相当する。親でも教員でも、まして牧師でもない「第三者」の立場(そもそもキリスト教会は、家庭でも学校でもない「第三」の居場所、この世にとらわれない「第三」の価値観を提供するという役割も担い得る)。

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 つまり、たまたま就職した先が「キリスト教」だったという事務職員は、「礼拝だりー」「聖書つまんねー」とぼやく学生、生徒の立場に最も近い存在として、彼らの声を代弁できるはずなのだ。例えばそれは、奇しくも夏期学校の参加者が一様に口にした「(ここに来るまで)憂鬱だった」という心境とも重なる。泊りがけの「修養会」で「建学の精神」にまつわる偉いセンセイの一方的な話を聞かされる学生、生徒の気持ちは、おそらく事務職員という立場にこそ最もよく理解できる。

 「ガチ勢」にはない新しい視点や発想を持つ「にわか」が世界を救う。冗談ではなく本気でそう思う。本来ならば「ガチ勢」であるクリスチャンの教員や牧師たちも当然持たなければならない視点。しかし、長年キリスト教の「中」にいて、その文化にどっぷり浸かってしまった私たちには、どうしても気づけないことがある。学校も教会も保守的なアタマでガチガチにかためられ、風通しの悪い場所になりがちだ。「ノンクリ」「にわか」だからと臆することなく、「第三者」の率直な意見を届けてあげてほしい。

 いずれは「ガチ」になるかもしれない事務職員の神対応に心からの期待を込めて。

(キリスト教学校教育同盟 第62回 事務職員夏期学校での特別講義「『ノンクリ』『にわか』だからできること」 より)

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