ちょうど6年生を担任していた年に長男が生まれ、それを機に教員を辞めた。最後に受け持った担任クラスの卒業生たちに贈った言葉。

 卒業生のみなさん、卒業おめでとう。私が小学校を卒業した時分は、一体何が「おめでたい」のかさっぱり分からなかったが、今ならその意味が分かるような気がする。六年間という長い年月、元気に学校に通えたということは、それだけで十分価値のある、何よりも「おめでたい」ことなのだ。

 そして特に、この学年の卒業は、私にとっても忘れられない、意味深いものになるだろう。五年間という短い教師生活の中で、最初で最後の卒業生になるからである。みんなと共に小学校を「卒業」するにあたり、私自身、日ごろ大事にしたいなぁと思っている四つのことについて書き記し、はなむけの言葉に代えたいと思う。

疑うこと 今はやりの○○詐欺や悪徳商法、新興宗教(占いや迷信なども含む)の類から身を守るための防衛策としてはもちろん、あらゆる場面において「なぜ?」「本当に?」と考えてみることは大切である。信じることを旨とするキリスト教においては多少違和感があるかもしれないが、本物の信仰も一度(場合によっては何度も)疑った上で初めて成り立つ。世間の「常識」や、本物「のような」感覚には懐疑的になる必要がある。特に最近は、強者への追従と迎合がまかり通るご時世だけに、「多数=正義」のような図式には大きな危惧を抱く。世の中には案外ニセモノも多い。それを見分けるには、常に自分の頭でものを考えること、「そんなもんだ」と思い込んで思考停止をしてしまわないことである。疑うことをやめてはならない。

省みること 何事もふり返ることなしに前進はあり得ない。その対極にあるのは、行き当たりばったりとやりっぱなし。省みるということは、過去にとらわれて後ろ向きに生きることではない。自分の行動に責任を持ち、失敗も成功も含めて、次に生かしていくという前向きな姿勢である。例えば暴力。殴られた側はいつまでも傷を抱えているのに、殴った側は忘れてしまうことの方が多い。戦争も同じである。加害者である方こそ、決して忘れてはならないのだ。己を省みることに加え、過去の経験から学ぶことも大切である。過去から学ぼうとしないと連鎖を生む。いじめ、虐待、後輩いびり…。歩んできた道をふり返り、歩むべき道を見すえることは、必ず未来にはばたくための向上心へとつながるはずだ。省みることを怠ってはならない。

謙ること 立派なことを言う人はいる。行いが正しい人もいる。しかしこのことは案外忘れられやすい。あらゆるモラルやマナーを越えて、キリスト教のアイデンティティとも言える部分ではないだろうか。それは、美徳として自己主張しないということではない。すべては、弱く罪深い至極小さな自分を認め、受け入れることから始まる。おごらず、高ぶらず、侮らず、欲張らず、謙虚に感謝しながら生きるという姿勢。自分は「偉い」と思った瞬間、己の成長は止まる。どこの大学を出たか、どこに就職したか、年収はいくらか、背は高いか、イケてるか、家は広いか、PSPは持っているか…。聖書(フィリピの信徒への手紙三章八節)に言わせれば、そんなものは「塵あくた」に等しい。神の前に人は皆、あまりにも小さい。謙ることを忘れてはならない。

想像すること 誰かを殺したり、遠い異国にミサイルを撃ったりできるのは、人の痛みに対する想像力に欠けるからに他ならない。もし自分が相手の立場だったら、もし自分がその場にいたら、自分の行動がこの先何をもたらすか、をイメージする力を養わなければならない。だから、本を読むことは大事なのだ。国語で勉強してきたことも、そのために必要な「道具」なのだ。そうした想像力をもてる人は、それを行動力につなげることができる。大げさを承知の上で言うならば、「想像力」が世界を救う。世界を滅ぼし得るのは、「想像すること」を放棄した「無関心」である。

 難しいことを偉そうにつらつらと書いてしまったが、思い返せば自分自身への戒めも多い。知らず知らずのうちに誰かを傷つけてしまうことがある。人を裁き、見下していることがある。毎日が反省の連続である。教師として、人として未熟な部分も多かったに違いない。

 卒業していくにあたり、愛校心とか「師への恩」など持たなくてもいい。時々これらのことを思い出してもらえたら幸いである。おめでとう。そして、ありがとう。みんなとの出会いは、かけがえのない出会いだった。

(2005 PTA通信特集号 第58巻より)