2009年、『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』(小学館)で
昨今のキリスト教書ブームの先駆けとなった、作家の池澤夏樹さん。

同書は、親戚にあたる秋吉輝雄さん(立教女学院短大教授、
旧約聖書・古代イスラエル宗教史研究者)との対談本で、
昨年末には文庫にもなり、今も広く読まれ続けている。

当時、拙ブログの「Ministry」に登場してほしい人という記事でも
紹介したとおり、本誌でのインタビューはかねてからの悲願でもあった。

秋吉さんの没後、遺志を継ぎ、編者として『雅歌』(教文館)を上梓されたのを機に、
編集を担当した倉澤智子さんのご尽力もいただき、
ついに最新号でそれが実現することとなった

聞き手として、親子代々池澤作品のファンだという波勢邦生さんにも
ご協力いただいた(実は波勢さん、声優である愛娘 池澤春菜さんのファンでもある)。

以下、本誌掲載のインタビューから一部をご紹介。
言葉を生業とする池澤さんならではの、含蓄ある答えにご注目

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──たとえば、どんなことがあれば毎週教会へ行きますか?

 ……大事なのは、そこで聞ける言葉に値打ちがあるかどうかです。聖書に則った言葉としての値打ちではなく、生身の言葉として、大震災についてどう考えるのかと。困っている人たちに何ができますか、それは自己満足でないことは確かですかと。被災地に何度も通っていて大変な状況も知っていますが、ああいう場で役に立つ言葉がお宅にはありますかと。それこそ、神はなぜ津波を遣わされたのか。そこで助かった人と助からなかった人の境は何か。ぼくはそう考えます。

 ……あのときも「天罰だ」といって怒りを買った某知事がいましたね。天罰だったらなんでお前が死なないんだと。

 そういうふうに、現実に対してキリスト教はどう答えるのか。アフガニスタンに派遣される米軍の従軍牧師は何をするんですか。兵士たちが牧師を必要としているからそのために行くと、そっち側だけを見ればよくわかります。しかし、状況は戦争でしょ。勝利を祈るんですか。敵兵の死を祈るんですかと、つい聞きたくなる。

──朝日新聞の連載コラムには込められた「祈り」も感じるのですが。

 もしぼくに信仰があるとして、それを旗幟鮮明に書いてしまうと、読者を限定してしまう。「あっち側」の話になってしまうんです。しかし沖縄や東京のことを書くときに、ぼくは「こっち側」にいるんです。残念ながら神を口にすると、それが隔てになる。

 ぼくにとって、それは神が介在する問題ではないともいえる。沖縄の問題は、沖縄人と日本政府と日本国民の間の話であって、たぶん神さまはそれらの愚かしさを憐れみの目でただ見ているでしょう。それこそ、神を試してはいけないんですよ。神のものは神のものですが、これらはシーザー(皇帝)のものなんです。

──原発の問題も然り?

 そうでしょうね。「君らが勝手なことをして滅びるなら仕方がないが、それを私のせいにはしないでくれ。単なる自滅だよ」とね。つまり、神を権威として使いたくない。「俺の後ろに神さまがついている」という思い上がりが嫌なんです。だから信仰は心の中に置いておいて、自分の部屋の中で祈るわけでしょ。

(2013.5 Ministry vol.17「ハタから見たキリスト教」より)