キリスト教や教会を「応援する」立場にありながら、
細かいことにケチをつけたり足を引っ張ったり……
と誤解されかねないと思いつつ、それでも
本来のキリスト教がすべきことは何かを
模索し続けることこそが、ひいては愛する教会のためになる
と信じて批判的検討を続けたい。

今回は、震災後の取材で耳にしたキリスト教系
支援活動に関するさまざまな(ノンクリからのものも含む)。

いずれもウラを取ったわけではないので
立場を変えれば他の見方も当然あり得るし、
それぞれの信憑性については読者に委ねるとして、
少なくともそう感じた人たちがいたという
事実だけは伝えておきたい。


「『愛』や『献身』『奉仕』というキリスト教の精神に依存し、貴重な人材が安価で『いいように』使い捨てられている」

「団体間の支援『競争』が過熱し、どれだけ速く、大量に物資を届けられるかを競い合っているように見えた」

プロの支援団体が入ってきたことで、素人にはとても手が出せなくなってしまった」

「こっちは早朝から深夜まで無償で働いてきたのに、ある日突然、責任者の個人的な縁故で有給スタッフが雇われた」

「被災地のボランティアに行ったのに、震災前から汚れていたと思われる個人宅の掃除をやらされた」

「ボランティアのために用意された昼食を、『安く食べられるから』といって食べていく牧師がいて辟易した」

「過労で体調を崩した職員が、『職務放棄か』と責められた」

「やたらと名前を売りたがる牧師、教派、教会、団体がいて困った」

「責任者が、『上司の尻拭いをするのが部下の務め』と言い放った」

「支援物資として献品された物を私物として持ち帰った牧師がいた」

「支援していた地域が出身地の近くだったので、できればボランティアを続けたかったが、耐えられずにやめた」

「責任逃れを続けていた牧師が、外部向けの広報誌には、さも自分が中心に活動を支えてきたかのように書いていた」

「意に沿わない者を評価せず、身内、学閥、教派、教区に囲われた内輪の『仲良しサークル』の域を出ていない」



しょせん教会も罪深い人間の集まりということか……。

おそらくこれらの声なき声は、
被災者支援のケースに限らず、教会、学校、
企業を含めたキリスト教界全体が抱える
普遍的な課題だと思われる。

あなたの身近でも、
思い当たる節がないだろうか……