「Ministry(ミニストリー)」

満を持して「サブカル宣教論」

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 これまで、「単なる編集長の趣味」という誤解を受けることがままあった。残念ながら私自身はガチなオタクリ(オタクなクリスチャン)ではない。ファミコンを買ってもらえない家だったので『ドラクエ』もまともにクリアしたことがないし、『ワンピース』は初期で挫折しているし、『おそ松さん』グッズだって持っていない。ただ、高尚な神学や麗しい教会音楽、建築、美術などに比して、サブカルチャーが教会の中であまりに軽んじられてきたことに対し、不憫な思いを抱き続けてきたことは確かである。

 極力、万人に理解できるように、そして教会の宣教に資するようにと編集したつもりではあるが、一部、説明が不十分で「理解不能」な箇所も多々あることをあらかじめお詫びしておきたい。不明な点はぜひ近くの若者を捕まえて尋ねてみてほしい。

 最後に一つだけ留意したいこと。蝉丸Pも指摘しているとおり、ただ信者を増やすためだけの「ツール」として安易にサブカルチャーを利用しようという魂胆は捨てたほうがいい。下心は簡単に見透かされる。それよりも、若い世代が日ごろ享受している「異文化」を純粋に楽しみ、共に分かち合うことから始めてみよう。

(2016年11月号 Ministry「編集後記」より)

ひろがる、つながる、おもしろがる。

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 おかげさまで創刊6周年を迎えることができた。3年1クール(連載12回分)として、ちょうど2クールを終えたことになる。号数も25号を数えるまでになった。これもひとえに、労苦を惜しまず尽力してくださったスタッフおよび編集委員の先生方、そして読者諸氏の絶えざるご支援によるものと感謝の念に堪えない。

 新たなスタートを切る意味で表紙デザインを刷新し、新連載「シリーズ・21世紀 神学の扉」も始めた。次号以降、新たな執筆陣による新連載も予定している。「境界を越える、教会が見える。」に代わる新コピーは「ひろがる、つながる、おもしろがる」。これまで6年にわたる歩みで気づかされたのは、教派や信条、団体や企業など、既存の枠を越えた「ひろがり」と「つながり」による豊かさ。そして何より、キリスト教は知れば知るほど奥深く、「おもしろい」(interesting)という事実。「『おもしろがる』とは不謹慎な!」と眉をひそめる方もおられるかもしれないが、それが製作者としての偽らざる実感である。

 今回の特集で取り上げた地方には、不思議にも悲壮感とは対照的な明るさが漂う。現実は厳しい。しかし、それを打ち破るのも、そうした逆境を「おもしろがる」発想とバイタリティなのかもしれない。

(2015年5月号 Ministry「編集後記」より)

「教会の奥さん」

 過去のキリスト新聞をめくり、度肝を抜かれたことがある。それは、「教会の奥さん」と題するインタビュー記事。毎回1人の「牧師夫人」の生い立ちや証しを紹介するもので、1965年から5年間、計215回にわたり掲載された。7月17日付の第1回には日本キリスト教協議会(NCC)議長であった岸千年さんの妻、岸恵以さんが登場。タイトルもさることながら、続く第2回目から連載終了まで、本人の生年月日だけでなく、身長、体重、趣味、好物までが堂々と掲載されているのを見て目を疑った。

 かつて「ハタから見たキリスト教」で辛淑玉さん(人材育成コンサルタント)は、牧師の家族を皇族になぞらえ、「いつでも誰に対してもニコニコしているなんて生き方してたら、壊れちゃう」と断じた。さらに、道で会った知人(男性)の連れ合いに「奥様ですか?」と聞くのは、知人(女性)の連れ合いに「ヒモですか?」と聞くのと同じ、とも。

 「教会の奥さん」のリードにはこうある。「サラリーマンや商人の奥さんなら、悪妻はいざ知らず、すこしくらいできがわるくても、ご主人さえちゃんとしておれば、かっこうがつく。ところが教会の牧師夫人ともなれば、そう簡単にはいかない」。たかだか50年前の新聞に載っていた文言。時代が変われば言葉も変わる。当然、教会も変わらざるを得まい。

(2013年秋号 「Ministry」編集後記)


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池澤夏樹さん 「大事なのは、そこで聞ける言葉に値打ちがあるかどうか」

2009年、『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』(小学館)で
昨今のキリスト教書ブームの先駆けとなった、作家の池澤夏樹さん。

同書は、親戚にあたる秋吉輝雄さん(立教女学院短大教授、
旧約聖書・古代イスラエル宗教史研究者)との対談本で、
昨年末には文庫にもなり、今も広く読まれ続けている。

当時、拙ブログの「Ministry」に登場してほしい人という記事でも
紹介したとおり、本誌でのインタビューはかねてからの悲願でもあった。

秋吉さんの没後、遺志を継ぎ、編者として『雅歌』(教文館)を上梓されたのを機に、
編集を担当した倉澤智子さんのご尽力もいただき、
ついに最新号でそれが実現することとなった

聞き手として、親子代々池澤作品のファンだという波勢邦生さんにも
ご協力いただいた(実は波勢さん、声優である愛娘 池澤春菜さんのファンでもある)。

以下、本誌掲載のインタビューから一部をご紹介。
言葉を生業とする池澤さんならではの、含蓄ある答えにご注目

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──たとえば、どんなことがあれば毎週教会へ行きますか?

 ……大事なのは、そこで聞ける言葉に値打ちがあるかどうかです。聖書に則った言葉としての値打ちではなく、生身の言葉として、大震災についてどう考えるのかと。困っている人たちに何ができますか、それは自己満足でないことは確かですかと。被災地に何度も通っていて大変な状況も知っていますが、ああいう場で役に立つ言葉がお宅にはありますかと。それこそ、神はなぜ津波を遣わされたのか。そこで助かった人と助からなかった人の境は何か。ぼくはそう考えます。

 ……あのときも「天罰だ」といって怒りを買った某知事がいましたね。天罰だったらなんでお前が死なないんだと。

 そういうふうに、現実に対してキリスト教はどう答えるのか。アフガニスタンに派遣される米軍の従軍牧師は何をするんですか。兵士たちが牧師を必要としているからそのために行くと、そっち側だけを見ればよくわかります。しかし、状況は戦争でしょ。勝利を祈るんですか。敵兵の死を祈るんですかと、つい聞きたくなる。

──朝日新聞の連載コラムには込められた「祈り」も感じるのですが。

 もしぼくに信仰があるとして、それを旗幟鮮明に書いてしまうと、読者を限定してしまう。「あっち側」の話になってしまうんです。しかし沖縄や東京のことを書くときに、ぼくは「こっち側」にいるんです。残念ながら神を口にすると、それが隔てになる。

 ぼくにとって、それは神が介在する問題ではないともいえる。沖縄の問題は、沖縄人と日本政府と日本国民の間の話であって、たぶん神さまはそれらの愚かしさを憐れみの目でただ見ているでしょう。それこそ、神を試してはいけないんですよ。神のものは神のものですが、これらはシーザー(皇帝)のものなんです。

──原発の問題も然り?

 そうでしょうね。「君らが勝手なことをして滅びるなら仕方がないが、それを私のせいにはしないでくれ。単なる自滅だよ」とね。つまり、神を権威として使いたくない。「俺の後ろに神さまがついている」という思い上がりが嫌なんです。だから信仰は心の中に置いておいて、自分の部屋の中で祈るわけでしょ。

(2013.5 Ministry vol.17「ハタから見たキリスト教」より)

境界を越える、教会が見える。

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 5年目を迎えた本誌のコピーは、「境界を越える、教会が見える」。当初の案では、後半を「教会を変える」または「教会が変わる」としていた。しかし、ふと立ち止まる。確かに教会はこれまで、あまりにも変わらな過ぎた。社会的現実や神学的な議論をふまえず、内実の伴わない前例踏襲主義に陥る危険性は自覚されるべきだが、常に「変える」こと自体を目的化することは果たして……!?

 「改革」「改正」と声高に叫ぶ威勢のいい為政者が、なし崩し的に変えてきたものを思う。構造改革、民営化、規制緩和、自由化……。とりわけ憲法96条をめぐる議論を見ていると、「改正」ありきの詭弁に危うさを覚える。時宜にかなって単行本化された本誌連載の「タイムっち」は、日本のキリスト教史とも密接に関係する国家主義的潮流に警鐘を鳴らす。歴史の過ちを繰り返してはならない。

 「時が良くても悪くても」変わることのない真実が、きっとある。まずは、狭隘な境界を越える。越えなければ見えない景色がある。自らの姿を客観的に見ることができなければ、変わるべきかどうかを判断することすらかなわない。今こそ、「変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ」と祈らずにはいられない。

(2013年春号 Ministry「編集後記」より)
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