おぴにおん

祖父の残した陸軍兵による略奪と殺戮の証し















「にわか」が世界を救う

 立教大学経営学部の中原淳教授は、「常連さんがあまりに『固定化』し、次第に、『新規参入者を抑制してしまう』までに権力を有し、実際にそのような行動をとってしまう」という現象を「古参プロ問題」と名付け、「新規参入者が確保できないコミュニティは必ず『衰退』する」と指摘する(https://bit.ly/2LgcQe6)。それは、お笑いコンビ「キングコング」の西野亮廣さんによる至言「ほとんどのコミュニティは風紀委員として過剰にドヤる古参が潰すことは歴史が証明している」と同じ意味を持つ。

 実はまったく同じ問題がキリスト教業界にも根強くある。「教会員があまりに『固定化』し、次第に、『新しくクリスチャンになろうとする人を抑制してしまう』」のだ。おそらくこれは、他のジャンル(アイドル、サッカー、プロレスなど)のファン層を広げる上でも共通の課題と言えそうだ。

 キリスト教学校の事務職員という立場は、おそらく「古参プロ(ガチ勢)」「新規参入者(にわか)」かで言えば後者に相当する。親でも教員でも、まして牧師でもない立場(そもそもキリスト教会は、家庭でも学校でもない「第三」の居場所、この世にとらわれない「第三」の価値観を提供するという役割も担い得る)。

 つまり、たまたま就職した先が「キリスト教」だったという事務職員は、「礼拝だりー」「聖書つまんねー」とぼやく学生、生徒の立場に最も近い存在として、彼らの声を代弁できるはずなのだ。例えばそれは、奇しくも夏期学校の参加者が一様に口にした「(ここに来るまで)憂鬱だった」という心境とも重なる。泊りがけの「修養会」で「建学の精神」にまつわる偉いセンセイの一方的な話を聞かされる学生、生徒の気持ちは、おそらく事務職員という立場にこそ最もよく理解できる。

 「ガチ勢」にはない新しい視点や発想を持つ「にわか」が世界を救う。冗談ではなく本気でそう思う。本来ならば「ガチ勢」であるクリスチャンの教員や牧師たちも当然持たなければならない視点。しかし、長年キリスト教の「中」にいて、その文化にどっぷり浸かってしまった私たちには、どうしても気づけないことがある。学校も教会も保守的なアタマでガチガチにかためられ、風通しの悪い場所になりがちだ。「ノンクリ」「にわか」だからと臆することなく、「第三者」の率直な意見を届けてあげてほしい。

 いずれは「ガチ」になるかもしれない事務職員の神対応に心からの期待を込めて。

(「キリスト教学校教育」2018年9月15日 716号)

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「にわか」が世界を救う

 立教大学経営学部の中原淳教授は、「常連さんがあまりに『固定化』し、次第に、『新規参入者を抑制してしまう』までに権力を有し、実際にそのような行動をとってしまう」という現象を「古参プロ問題」と名付け、「新規参入者が確保できないコミュニティは必ず『衰退』する」と指摘する。それは、お笑いコンビ「キングコング」の西野亮廣さんによる至言「ほとんどのコミュニティは風紀委員として過剰にドヤる古参が潰すことは歴史が証明している」と同じ意味を持つ。

 実はまったく同じ問題がキリスト教業界にも根強くある。「教会員があまりに『固定化』し、次第に、『新しくクリスチャンになろうとする人を抑制してしまう』」のだ。おそらくこれは、他のジャンル(アイドル、サッカー、プロレスなど)のファン層を広げる上でも共通の課題と言えそうだ。

 キリスト教学校の事務職員という立場は、おそらく「古参プロ(ガチ勢)」「新規参入者(にわか)」かで言えば後者に相当する。親でも教員でも、まして牧師でもない「第三者」の立場(そもそもキリスト教会は、家庭でも学校でもない「第三」の居場所、この世にとらわれない「第三」の価値観を提供するという役割も担い得る)。

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 つまり、たまたま就職した先が「キリスト教」だったという事務職員は、「礼拝だりー」「聖書つまんねー」とぼやく学生、生徒の立場に最も近い存在として、彼らの声を代弁できるはずなのだ。例えばそれは、奇しくも夏期学校の参加者が一様に口にした「(ここに来るまで)憂鬱だった」という心境とも重なる。泊りがけの「修養会」で「建学の精神」にまつわる偉いセンセイの一方的な話を聞かされる学生、生徒の気持ちは、おそらく事務職員という立場にこそ最もよく理解できる。

 「ガチ勢」にはない新しい視点や発想を持つ「にわか」が世界を救う。冗談ではなく本気でそう思う。本来ならば「ガチ勢」であるクリスチャンの教員や牧師たちも当然持たなければならない視点。しかし、長年キリスト教の「中」にいて、その文化にどっぷり浸かってしまった私たちには、どうしても気づけないことがある。学校も教会も保守的なアタマでガチガチにかためられ、風通しの悪い場所になりがちだ。「ノンクリ」「にわか」だからと臆することなく、「第三者」の率直な意見を届けてあげてほしい。

 いずれは「ガチ」になるかもしれない事務職員の神対応に心からの期待を込めて。

(キリスト教学校教育同盟 第62回 事務職員夏期学校での特別講義「『ノンクリ』『にわか』だからできること」 より)

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誰かをコントロールしたい?

 先日、友人から指摘されて分かったこと。「誰かを思い通りにコントロールしたい」と思ったことが記憶する限りほとんどない。自分は自分、他人は他人だから当然ではあるが、世間では概ね「冷たい」と評されることも多く、案外そういう割り切りをする人は少数派らしい。そもそも他者への期待値が低い。

 誰かに期待するより「自分でやった方が早い」となって自己完結しちゃう(人に仕事を振るのが苦手で抱え込んじゃう)という負の側面もあるわけですが、他人が「思い通りに動いてくれない」というストレスからは限りなく自由です。夫婦間のズレも主にここに起因していたというのは、ある意味発見でした。

 例えば「あれだけ忠告したのになぜ?」とか「懸命に伝道したのに結局洗礼を受けてくれない」とか「今このタイミングであの家事をしてほしかったのに」みたいなストレスを感じたことがないんですよ。まったく。

 だから、最初から人に見返り(良い反応、お返し、返礼、報酬、具体的な成果)を期待することもないし、その分、誰かに「コントロール」されることについては人一倍ダメなんだと思います。こっちは何も期待しないのに、なんで期待に応えなきゃいけないの?と。

 そっか、だから伝道(布教)で必要以上に凹んだりがっついたりしないわけだ。それはそれで、熱心なガチ勢からは「伝道する気があるのか!?」「詰めが甘い」「そんなんだから信者が増えないんだ」とかなじられそう。自分自身はガチで信じてるつもりなんですけどね。

 あと、自分の趣味嗜好を共有したい願望が驚くほどないんですよ。しょせん自分の好みなんか他者には理解してもらえないだろうと思っている節があるので…。だから映画とかテレビとか漫画とか、思い入れのある作品ほど誰かと一緒には見たくない。「なんで誘ってくれないの?」とか意味不明すぎて…。

 逆にやたら共有したがる人がたまにいてドン引き。そんなに好きなら一人で思う存分楽しめばいいのに…どうせ一緒に見たって同じテンションになるとは限らないんだから。で、同じテンションで感想語らないと怒られるし、気遣って「オモシロかった」とかうそぶける社交性も協調性もないし。

 まさに『ブラックジャック』本間丈太郎の境地。「人の思想・信条、言動や趣味嗜好を思い通りにしようなんておこがましいとは思わんかね」

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 ゲシュタルトの祈り
 「私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
  私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
 そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない…(以下略)」


無用な長電話が嫌いです。

 無用な長電話が嫌いです。

 用件のみで極力早く切りたいタイプ。ところが世の中には何でも電話で済ませたがる人種や、メールよりも電話の方が丁寧だ(失礼でない)と信じて疑わない人種もいるようで、そもそも電話苦手派にとってはちょっとした脅威。LINEとまでは言わないが、せめてメールにしてくれ。

 電話は記録が残らず後から検索もできないので、記憶力に自信のない人種にとってはホント困る。あと、メールにしても敬称とか時候のあいさつとか件名とか誤字とかで怒る人がたまにいるので意外に厄介。もっと実益重視合理的に考えません? 手書きの手紙で仕事の依頼とか逆に引くし…。

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 ついでに慣例上お返しが必要な形だけのお祝いとか、もらうの面倒なのでマジやめてほしい。年賀状もお中元もお祝儀も、お互いの無駄な負担だから要らなくね? この手の習慣はどっちかがやめない限り延々と続いちゃうので、みんなせーのでやめましょう!

 これ、でももらった直後(結婚祝いとか誕生祝とか…)は絶対に口が裂けても言えなかった。今だから言える話。さすがに教員時代、「一切受け取りません」って宣言してからは届かなくなった。それでも「なんで受け取ってくれないんですか?」「お返し要りませんから」と食い下がる親もいなくはなかった。

 逆に「断るのが面倒」との理由でもらうだけもらい、丁寧にお返しを送っている同僚の先生もいた。しかし多くの場合、手配するのは教員本人ではなくなぜか「妻」の役目。すべての送り主と宛先を管理し、もらった物の額に応じて返礼品を選び、発送する手間がどれだけの負担か…想像するに余りある。

 ちなみに家族からの電話も、淡々と用件のみで済ませるので「無愛想」といつも怒られる。いや、そこに愛想は要らなくね? 他人ならまだしも身内だし。怒ってないのに「怒ってる?」って聞かれるし。これだから電話は嫌いなんだって…。とはいえ、不快感をもよおすレベルらしいのでやや反省。

 電話の何が嫌って、相手の都合や状況がどうあれ強引に無理くりねじ込んでくる感じ。無論、前もって「いま電話いい?」と聞いてくれる配慮はありがたいが、苦手派にとって電話は「最後の手段」なので、緊急性を要する場合にしか使わない。逆に電話が来ると、よほどの「緊急事態」かと考えてしまう。
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